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中国侵略日本軍兵士のアルバムに南京大虐殺時の写真を発見

中国侵略日本軍兵士のアルバムに南京大虐殺時の写真を発見

遼寧省本渓市のある収集家が先ごろ、中国侵略日本軍兵士のアルバムを発見した。そのアルバムの中にあった南京大虐殺当時の写真が、南京大虐殺を証拠づける重要な資料だとして専門家・学者らに注目されている。新華社が伝えた。

収集家の毛偉さんは、吉林省長春市のある骨董店でこのアルバムを見つけた。アルバムの中の人物の写真や印鑑などの情報から、このアルバムの持ち主が中国侵略日本軍第16師団第30旅団歩兵第33連隊兵士の小平徹雄であることが分かった。

今回発表された写真には、南京大虐殺犠牲者の遺体7体が泥水の中に横たわっている様子が写っている。遺体のなかには焼かれたため損傷したり変形したりした遺体もあり、遺体の側には焼かれた痕跡のある木材など雑多な物が雑然と散らばっている。その写真の下には、「南京」と書かれた白い紙が貼られていた。

遼寧社会科学院歴史研究所の張潔研究員は、「日本は中国侵略戦争を発動した際、こうした写真を厳しく管理していたため、通常はほとんど外部に流出しなかった。この写真は小平徹雄によって保管され、個人のアルバムに貼られており、戦功を誇る意味があったのではないか」と述べている。

中国近現代史料学学会の王建学副会長は、「写真に写っている遺体遺棄地点は長江のほとりだろう。写真が示す位置や地面に残っている車輪の跡、遺体を先に焼いた後で慌ただしく遺棄していることなど細かい点が、中国侵略日本軍が南京大虐殺の前後に犠牲となった中国の兵士や市民の遺体を処理した方法と極めて合致する。それに加え、アルバムの持ち主の身元情報などの内容からも、南京大虐殺の際に撮影された写真であることが確認できる。この写真は、日本軍が中国侵略で働いた暴虐行為に対する証明と南京大虐殺関連の歴史研究の上で重要な価値がある」と指摘している。(編集AK)

「人民網日本語版」2019年12月11日 

代理養育 ~人間が子どもを女手一つで育てるようには進化しなかった?!~

アンジェラ・サイニー『科学の女性差別とたたかう』東郷えりか訳、作品社、2019年

頁167──
 すくなくとも証拠の重みからは、人間が子供を女手一つで育てるようには進化しなかったという考えが有利であるようだ。子育ては母親だけが負う責任ではなかったのだ。「いま判明しつつあるのは、われわれの思考という観点からは、人間における協力的養育がますます重要になってくるということです」と、リチャード・ブリビエスカスは言う。この考えと、それが意味することにたいする証拠が増えるにつれ、人類の物語においてアロペアレントがいかに重要であるかが明らかになってきている。そこから興味深い疑問が浮かぶ。母親が1人で子育てをするように進化しなかったのだとすれば、母親の周囲では誰が最も援助の手を差し伸べてきたのだろうか?


奥野克巳  おくの かつみ 1962年生まれ。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。大学在学中にメキシコ先住民を単独訪問し、東南・南アジアを旅し、バングラデシュで仏僧になり、トルコ・クルディスタンを旅し、大卒後、商社勤務を経てインドネシアを一年間放浪後に文化人類学を専攻。


子育てを親だけでやらない社会がある

https://socrates.media/2018/10/01/3157/

ジャレド・ダイアモンドは、『昨日までの世界』で、伝統的社会で見られる「アロペアレンティング」(代理養育)と呼ばれる子育て法に着目している。それは、「子育て」を表すparentingに「もうひとつの、代わりの」という意味のalloという接頭辞を付けて、「実の親ではない人物による養育」という意味合いを持つ用語である。生物学的な親以外の大人(たち)が、子どもたちの世話をして養育することが、アロペアレンティングである。

ダイアモンドによれば、広い意味でのアロペアレンティングは、ヨーロッパ世界でもかつてはおこなわれていた。しかし、アロペアレンティングとは、近代社会よりも伝統的社会でより重要な制度であったのだという。

「子どもにとってアロペアレントは物質面で重要な存在である。親以外の存在として、自分に食物や保護を提供してくれる存在だからである。世界各地の小規模社会に関する研究からも、アロペアレントの存在が子どもの生存率を高めることが示されている。そして、親以外の人々が子どもの養育に関与することは、子どもの心理面の発育のうえでも重要である。それらの人々は、子どもに、いろいろと人生に必要なことを教えてくれる存在でもあり、子どものとるべき行動のお手本となる存在だからである」[『昨日までの世界』325ページ]

アロペアレンティングによって、子どもたちは食料と保護を与えられ、多数の大人によって人生で必要なことを教えられ、心理面の発育が促される。さらには、実親と養親の間の社会的な絆を固める。

ボルネオのジャングルで狩猟採集生活を送る「プナン」の社会でも、実親以外が子どもを世話するという意味で、アロペアレンティングがおこなわれている。ふつうの親子関係が営まれている場所のすぐ隣で、血のつながりのない一組の男女と子どもの間にも親子関係が結ばれ、それらの二組の親を含む多数の大人たちによって子育てがおこなわれている。そのことは、基本的には、生みの親と養親の意志による主導でおこなわれる。互いの親の合意によって、子どもが「養子」となり、養育の場が養親のもとに移される。養子が乳呑み児の場合には、完全に場所を移ってしまうのではなく、近くにいる生みの母親のもとで母乳が与えられる。

子どもがいない夫婦が養子を迎えて育てるということももちろんある。しかし、それはプナンのアロペアレンティングの主軸ではない。日本では、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ「猶子」を除けば、家父長制的な家族制度のもとで、家を存続させるための養子縁組がおこなわれることが多かったが、プナンの養子とは、家のためにおこなわれる養子縁組ではない。

プナンは、「アナック・ラン(実の子)」と「アナック・アムン(養子)」を区別することがある。しかし、実子か養子かを問わず、親たちが共同で子育てをすることに、プナンのアロペアレンティングの主眼がある。そのため、夫婦には子どもがすでに何人もいるのに養子を迎えたり、祖父母が娘の息子を養子として引き取って育てたりすることがある。子どもの側から見れば、養親とともに生みの親が近くに住んでいることがほとんどで、その場合、養親と生みの親のどちらとも頻繁に行き来をすることになる。

五十歳代の男性ジャガンのアロペアレンティングを含めた子育てを見てみよう。プナンの配偶制度は一夫一婦的で、男女が次から次へとパートナーを替えていくことで、一夫一婦の原則は保たれている。男女の結びつきが先にあり、実子にせよ養子にせよ、子を得ることが、プナンの「結婚」である。

ジャガンという名の男性は20歳になったころにパートナーと暮らすようになり、その後3人の子どもをもうけた。30歳を目前にそのパートナーと別れ、子どもたちは、母親と一緒に暮らした。その後、ジャガンは新たなパートナーを見つけたが、その女性との間には子どもがすぐにはできなかったので、養子を迎えて育てることにした。5年ほど経つと、ジャガン夫婦には相次いで二人の子ができ、養子一人と実子二人を一緒に育てることになった。養子は、ジャガンと、近隣に住む彼の実の親とその家族の間を行き来しながら大きくなった。

子育てが一段落すると、ジャガンと妻は幼い子がいないのは寂しいという理由で、近隣に住む親族(後述するスリン夫婦)から生まれたばかりの乳呑み児を養子として迎えた。乳呑み児には最初、生みの母親によって母乳が与えられ、その後、ジャガンたちが主に養育するようになった。その子が歩き始めるころに感染症で死亡すると、ジャガンは、その後、近隣で生まれた新生児を新たに養子として迎えた。

もとより、こうしたアロペアレンティングは、ジャガンと彼の妻が始めたものではない。ジャガン自身も、養父によって主に養育されたし、彼の母の兄弟姉妹たちが暮らす場所で、親たちの世代の大人たちによって育てられて大きくなったのである。

スリンは20歳代で、ジャガンのいとこにあたる女性とパートナーになった。第一子は女の子で、生まれるとすぐに隣住の子どものいない夫婦のもとに養子に出された。第二子、第三子は女の子で、スリン夫婦のもとで育てられた。第四子は女の子で、すでに何人かの子どもがいる別の隣住の夫婦のもとに養子に出された。第五子は男の子で、スリンたちのもとで育てられた。女の子であった第六子は、上で見たジャガンのもとに養子に出されたが、幼くして死んでしまった。第七子の女の子は、第一子と同じ夫婦のもとに養子に出された。第八子である男の子は、スリンが育てている。スリンは、8人の子どものうち4人を養子に出しているが、養子先はすべて近隣の家族である。子どもたちの側からいえば、いつでも実親・養親のどちらとも会える距離にいたことになる。

プナンのアロペアレンティングは、血のつながりのない親子のフィクティヴ(擬制的)な親子関係を血のつながりのある親子関係に加えることによって、多数の大人が子育てに関わることである。親が養子を引き取って、自分の家の中だけで育てることはない。プナンの社会空間それ自体はとても開放的な空間であり、養子は、養親と生みの親だけでなく、共同体に出入りする大人たちによって養育される。多数の子どもたちに対して、多数の大人たち、年長者たちが入り混じって養育に加わる。

親の側から見れば、子育てに対する負荷が少ない。虐待などをおこなうような誤った育て方は、多数の目によってチェックされる。

子どもたちは、早くからいろんなタイプの人と交わって人間関係を学び、精神的にも成長する。それが、アロペアレンティングである。

プナン社会では、養子と実子がひとつの家族の中で互いに混ざりあって、親子という現実をつくり上げている。プナンの家族については、そのどちらが「本当の」親子関係だと言うことはまったくできない。プナン社会では、実の子であれ他人の子であれ、親とのあいだに結ばれるのが、親子の関係に他ならない。

(『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』より抜粋)

村上敏明 戦争の語り部

あの人に迫る

村上敏明 戦争の語り部

https://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018042002000247.html

写真・望月衣塑子

写真

◆あやめた母と妹 遺言の九条守る

 村上敏明さん(83)は毎週金曜、関西電力京都支店前での脱原発のアピール行動に参加する。改憲阻止のための三千万人署名運動に携わり、戦争の語り部も続ける。若い人にも戦争の悲惨さを伝えたいとフェイスブックやツイッターを利用し、フォロワーは計五千四百人を超えた。その熱意は、戦後の旧満州(中国東北部)で母と妹を自らの手であやめた深い悲しみと絶望から来ている。「戦争が全てを奪った」。亡くした二人に突き動かされるかのように、いまを生きている。

 -戦前、なぜ満州へ。

 一九三八年に鉄道貨物会社の社員だった父六夫(むつお)=当時(32)=の転勤に合わせ、母こま=同(26)=と四歳の私、弟淳(じゅん)=同(1つ)=の四人で満州の大連に渡った。四一年四月、満州の新京(現長春)の小学校に入学、四二年八月、四平に転勤となり、四平小学校に転校した。

 終戦間際の四五年一月、日本政府は「持久戦の主たる抵抗は国境にて行い」「兵は国境寄りに置き、この部隊は玉砕せしめる。武器など補給は予定しない」などと言い、国境にいた正規軍を沖縄やフィリピンに移そうとした。代わって四平の学校の先生や父のような会社員が、北の国境警備隊に当たるよう徴兵された。

 -ちょうど同じころ、妹芙美子(ふみこ)さんが生まれた。

 四五年五月、芙美子が生まれたが、戦争の混乱で役所が記録を取らなかったのか、戸籍謄本には誕生や死亡時の記録が全くない。

 ポツダム宣言を受諾後の八月九日、ソ連軍が満州に侵攻を開始。私は小学五年生だったが、男手がなく「ソ連の戦闘機が飛んできたら知らせてくれ」と言われ監視要員に。中学生は火薬を詰めた竹筒でソ連兵の陣地を壊す訓練を強いられ、ソ連軍の戦車にひかれて死亡した先輩もいた。

 -日本政府の棄民政策に失望した。

 終戦前、ポツダム宣言受諾を決めていた日本政府は「外地に居る居留民はでき得る限り定着の方針を執る」と棄民政策を打ち出した。戦後、一挙に満州の日本人が、日本に戻ったら混乱すると思ったのだろう。

 詩人の加津牟根夫(むねお)さんの「軍隊は住民を守らぬものなりし、満州を見よ、沖縄を見よ」の詩に私は「今、福島を見よ」と付け加えて発信している。敗戦後の政府も、現在の政府も都合の悪いものは、常に排除し続けているのは同じだ。

 敗戦後も兵隊たちは郊外の川岸で「俺たちは負けない戦うぞ」と穴を掘っていたが、政府は棄民政策を強め、八月二十六日に大本営が「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と発表。このころ四平にはソ連兵による威嚇のための発砲音が毎日聞こえるようになった。

 敗戦を迎えた八月から引き揚げる翌年九月まで、ショックのためか、どう暮らしていたかの記憶がない。シベリアに抑留された父の給与は凍結され、母は街頭でがんもどきなどの立ち売りをしていたようだ。

 満州の財界有志が、カトリックの司教や中国政府の要人の協力を得、ソ連軍が支配する中、秘密裏に脱出し四六年二月、日本へ渡航。GHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー司令官や吉田茂外相に満州の日本人百五十万人のうち0・3%が毎日飢えなどで死んでいると、窮状を訴えた。

 その後、四平では四六年三月、ソ連兵が撤退、同時に内戦中の中国共産党の軍隊が進駐した。五月には、中国正規軍が四平を占領支配。四平中心部では戦闘があり、日本人がバリケードを造る作業をさせられた。

 市街地の戦争で中国正規軍が入った時に、重要拠点で発砲が続いた。親友の小林允(まこと)君は、中国軍の少年兵に死体の中に埋もれて隠れろと言われ、その指示に従い、九死に一生を得て無事、日本引き揚げが実現した。

 -それなのになぜ、妹をあやめることに。

 四平の日本人会幹部が中国の関係者と協議を重ね、「栄養不良で病弱の子供は列車の旅で大変になるから殺すように」と、指示を出したようだった。

 詳細は思い出せないが、自宅には母と二人の弟、医者、お坊さんがいて、僕に恐らく何かを指示した。僕は母が胸に抱いていた一歳の芙美子の小さな口に毒入りの水をスプーンで注いだ。瞬間、芙美子は目を見開き僕をじっと見て、そのまま息を止めた。その顔は「お兄ちゃん何をするの」と、にらみつけ必死に訴えているようだった。まだ、言葉は発しなかったが、苦しそうな目だけは、今でもはっきりと思い出す。

 七月七日、四平をたったが、母親は車内でじっと横になって「芙美子、芙美子」とうなされていた。

 引き揚げ窓口の日本人会が病弱の子を殺すことをどこで決めたかの記録はない。妹は戸籍に記載されておらず、妹の死を知るのは私と弟と小林君だけだった。

 ショックのためか、妹を殺した後の記憶がないが、小林君は三十六年後に再会した時、開口一番「お母さんどうしてる」と聞いてきた。「なぜ」と聞くと、「君のお母さんは妹さんをあやめた数日後、引き揚げで僕の家の前を通った時に歩かず荷車に乗り、僕らに手を合わせていた」。小林君は「君は泣きじゃくり『妹を殺した』と話していた」と四平での出来事も語った。

 -その後、母親もあやめることになった。

 七月下旬から八月七日にかけて母は動けなくなり、葫蘆(ころ)島港(現遼寧省)近くの病院に入院した。数日後、薬を飲ませていた私に、いつもと違う白い薬が医師から手渡された。母の口に流し込むと、母はすぐに白い泡を吹き息を引き取った。当時、回復の見込みがない病人には、青酸カリが処方されていた可能性が高いと、後に知らされた。

 その晩は、弟を含めて三人で母の亡きがらの横に添い寝した。翌日、海の見える丘に母を土葬。リュックの中に母のお気に入りの着物があり、うち一枚を遺体にかけ土をかぶせた。船の汽笛が葬送の調べのようだった。母は芙美子から離れたくなかったのかも。

 港しかない場所だったが、葫蘆島はいま新幹線も通る二百万人の大都市に。母の埋葬場所は分からないだろうが、行ってみたい。

 -その後、故郷までどうたどり着いたのか。

 九月十日に船が長崎・佐世保に到着。学生の手を借りて京都駅にたどり着き、そこで京都府の職員らしき人が、母の故郷の亀岡まで私ら兄弟三人を連れ、祖母に引き合わせてくれた。

 弟の淳=当時(9つ)=は帰ってすぐ結核性髄膜炎で亡くなった。天井を見ながら「芙美子、芙美子」と弟もまた妹の名を呼び、うなされて死んでいった。

 -いまを生きる世代に何を伝えたいか。

 芙美子や母は、なぜ私に殺され、死なねばならなかったのか。戦争という不条理がそれを肯定した。戦争に正義などない、あるのは不条理と戦争から生まれる癒えることのない、憎しみと悲しみの連鎖だけだ。

 戦争しない国を掲げた憲法九条は、母と芙美子が私に残してくれた遺言だ。戦争を知らない世代が権力を牛耳り、若い世代で、戦争につながる行動が肯定されていると感じる。社会の分断を食い止め、戦争への道を止めるため、いまやれることをやらねば。

 <むらかみ・としあき> 1934年京都生まれ。父の転勤に合わせ38年に旧満州・大連に移住。その後、母、弟と四平に移った。敗戦で46年に日本への引き揚げ時に、病気がちの妹(1つ)を医師の指示であやめる。母はその後に衰弱し、同8月6日、病院で医師の調剤した薬により死亡。同9月10日、船で佐世保に帰還した後、弟2人と京都府亀岡市の祖母宅へ。51年、京都市教委に就職。60歳の定年後も大阪府島本町の図書館勤務の傍ら夜間高校に通い、立命館大2部を卒業。3・11以降、京都市伏見区に避難した福島の人々とつながり反原発運動に参加。2012年から「金曜日関西電力京都支店前アピール行動」に参加し、市民運動に関わり続ける。

◆あなたに伝えたい

 戦争を知らない世代が権力を牛耳り、若い世代で、戦争につながる行動が肯定されていると感じる。

◆インタビューを終えて

 市民活動で活躍する医師の竹内由起子さん(43)から「すごい人がいる」と村上敏明さんを紹介された。

 「戦争は絶対だめ」と繰り返し、太い眉の下のつぶらな瞳の奥に揺るぎない意志が見え隠れするようで圧倒された。

 愛する母や妹をあやめたことへの罪の意識を背負い、長い沈黙を続けたが、政治の進む方向に危機感を募らせ「今こそ言わねば」と、二〇一〇年に「四平小学校同窓会記念誌」で満州での自らの体験を記し、それ以降、積極的に語るようになった。不思議と毎晩見ていた悪夢を見なくなったという。

 「残りの人生で、芙美子や母が『きちんと戦争を語り尽くして』と言いたかったのかな」

 村上さんの心のバトンを私たちが引き継いでいかなければ。

 (望月衣塑子)

[寄稿]日本の“韓国蔑視”の根源

[寄稿]日本の“韓国蔑視”の根源

登録:2019-10-13 17:20 修正:2019-10-15 07:47
http://japan.hani.co.kr/arti/h21/34629.html                              

太平洋戦争を「アジア民衆解放」と謳い・宣伝した日本 
帝国主義が終わった後には資本主義でアジア市場に「経済浸透」

日本の東京湾に停泊した米国艦艇ミズーリ号の甲板で行われた降伏調印式(1945年9月2日)=米国 National Archives II所蔵//ハンギョレ新聞社

 日本は「大東亜戦争」を始めた理由が、西洋帝国からアジア民衆を解放して繁栄を成し遂げるためだったと宣伝した。日本を占領した米軍は、大東亜戦争という名称を直ちに禁止して「太平洋戦争」に言い換えた。しかしこの戦争の性格や戦闘が起きた地域、参加人員の側面を見ると、この戦争は大東亜戦争でも太平洋戦争でもない「アジア太平洋戦争」だった。

 日本人は戦争に敗れたが、これを「敗戦」とはしなかった。連合軍の将軍たちが並んだミズーリ号の船上で執り行われた天皇と日本陸海軍の降伏は、数十年間持続した日本帝国の敗亡を伝える事件だったが、日本人は単に戦争が終わったという意味の「終戦」と言った。負けたということを受け入れられず、戦争を直視できなかった日本社会は今、「戦争ができる正常国家」に向けて突き進んでいる。

 多くの帝国主義国家がそうだったように、日本近代史は戦争の時間で埋まり、日本国は戦争を経て作られた。日本が朝鮮を手中に収めようと起こした日清戦争は、近代的立憲国家を標榜した明治維新が始まってから27年しか経っていない時であり、それから正確に10年後にはロシアと戦争をして、朝鮮の支配権を確実に握った。

植民地収奪により成された帝国の発展

 封建的幕府時代に終止符を打ち、近代的システムを取り入れてからわずか数十年で強大国を倒すことができたのは、日本の膨張欲求だった。一方では、ロシア勢力の南下を阻止しようとしていた英国、朝鮮の支配権とフィリピン支配を相互に交換した米国の共謀も、日本が日露戦争に勝利した要因の中の一つだった。

 日本の進歩派の歴史学者は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争は個別の事件ではなく侵略戦争が継続する期間と見て、これを「15年戦争」と言ったが、事実、日本の戦争の歴史は、日清戦争から太平洋戦争時期まで一貫した流れとして進行した。それは領土拡張の歴史であり、侵略の歴史だった。日本は北海道と沖縄を自国の領土に編入した後、台湾と朝鮮を占領して植民地にし、帝国の力を育てていった。その中でも朝鮮という植民地は、日帝が力を備蓄して東アジアで跳躍する重要な足場になった。日本近現代史は「帝国発展史」だが、同時に他のアジア国家を侵略して幾多のアジア人民に苦痛と死をもたらした、流血と略奪の歴史でもあった。二つは日本史から分離して考えることはできない。

 フランスの哲学者プルードンは「所有とは盗賊」だと言った。これと似た語法で、帝国の“発展”は植民地“剥奪”によってのみ成立すると言うことができる。自分たちの能力で新技術を発明して一生懸命労働したので帝国の繁栄を成し遂げたという論理は、植民地が帝国の富にどのような寄与をしたのか努めて無視する、帝国の神話に過ぎない。賢くて努力して帝国が成功したという話は嘘である。

 日本の東京大学歴史学教授の加藤陽子は、戦争の重要性を強調する。満州事変と日中戦争の専門研究者である加藤は、韓国では安倍晋三の歴史認識と集団自衛論に反対する進歩的研究者と紹介されている。しかし加藤は、帝国が発展する過程で植民地はどのような存在だったのか、植民地が帝国といかなる関係だったかは、ほとんど視野に入れない。彼女は、「日清戦争は清も東アジアでリーダーシップを獲得するための努力をしたので、日本の侵略と一方的に言うことはできない」と言う。日露戦争に対しては、「日本が日露戦争に向かう過程を見ると、朝鮮半島が今一度、日本の安全保障問題として浮上したということがわかります」、最近の資料によると、「結局、戦争を避けようとしたのはむしろ日本で、戦争に積極的だったのはロシアだと言うことができます」(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』)と言う。

東京戦犯法廷で東条英機が中央に座っている=米国 National Archives II所蔵//ハンギョレ新聞社

隠密に繰り返される「征韓論」

 加藤の叙述は実は100年前に征韓論が詠じた台詞を繰り返したものである。日清戦争と日露戦争の目的は、すべて朝鮮半島だった。明治維新以来、征韓論者らは日本の安全のためには朝鮮半島が日本を狙う匕首にならないようにし、日本の安全を確保するには朝鮮半島を手の内に収めなければならない、と主張した。西郷隆盛が朝鮮を征伐しなければならないという「征韓論」を初めて主張したのは1873年だった。彼は朝鮮が日本を辱めたから懲罰しなければならないと言った。武士階級を代弁した西郷は、内乱発生の危機を突破しようと矢を外に向けた。彼の主張は議論を呼び起こし、反対派も多かったが、次第に日本の支配層が共有する常識になった。

 “進歩的”歴史学者の加藤の視覚は、帝国発展史に限定された。加藤は米国や他の帝国主義国家と日本の歴史的行為を比べて、日本の行為は非難を浴びる理由がないという論理を駆使する。例えば2001年の9・11テロの後の米国と、1937年に日中戦争を起こした日本を比べてこのように言う。「日本は同じ観点で戦争を眺めました。相手が悪い仕業をしたから武力を行使するのは当然で、その武力行使をあたかも警察が犯人を検挙するように考えました」

 50年余り前と比べると、現在の日本の進歩学界がどう変わったのかよく現れている。家永三郎が1968年に『太平洋戦争』の筆を執った時、彼の問題意識は加藤の質問とまったく同じだった。すなわち、日本は「なぜ戦争を阻止することができなかったのか」だった。なぜ戦争に抵抗できず屈服したのかに対する、諮問と自答を探す過程だった。

 しかし加藤は、日本史を進展させた内部要因とその過程を察するより、外部の他の主体(国家)と比べる。結局、帝国間の戦争は同じだから、責任を問うことができないということである。真珠湾攻撃は侵攻ではなく、米国の経済制裁と圧迫に対抗した自己救済策でしかない。日本は帝国主義国家との競り合いに割りこんだ被動的位置に過ぎないため、戦争責任に道徳的判断を下すことができなくなる。

 加藤の論理と極右派論理は確かに違う。それでも、加藤は戦争責任を直視するのではない。むしろ、その責任は他の帝国主義国家に押し付けられたり、誰の責任でもないことにして、はっきりしないまま残っている。戦争が人民にどのような苦痛をもたらしたのか、その意味は何かを問わずに、帝国の生存戦略のレベルで歴史を整理する手法こそが、当時の軍部の論理を繰り返すものだ。植民地の抑圧を省みることもせず、異域万里の西洋帝国主義を非難した姿こそ、責任を回避する二律背反的な態度と言うことができる。日本が唯一認める責任は、西洋帝国に対する責任である。日本は米国に対する戦争責任は認めるが、韓国に対する戦争責任が入る余地は初めからない。

戦争は「帝国生存戦略」

 加藤の本には戦争を主導して率いた天皇の責任はどこにも見つからない。1945年、敗戦が近付いた時、日本の支配層が念頭にあったのは国民ではなかった。降伏する場合、天皇の地位がどうなるかが焦眉の関心事だった。戦時に日本国民は「万世一系」を叫んで天皇に忠誠したが、天皇は処罰されなかった。「大東亜戦争」で天皇に忠誠を尽くして命を犠牲にした戦死者、降伏は不名誉として自決を強要された兵士、戦場で非人間的な状況を見て異常心理になった兵士は、皆捨てられた。死体があらゆる所に散らばった状況を経験して、殺人が処罰されない前線で殺すという行為が勇敢であると誉められる時間を過ごし、自分も信じることができない混乱を経験した幾多の兵士が、戦後の日本社会で息を殺して生きていった。しかし戦争が終わって20年余りが過ぎた時、すでに戦争は過去のことになってしまい、高度経済成長だけが日本社会の目標になった。

 事実、日本の戦争責任を回避する歴史叙述は、加藤にだけ該当するものではなく、一晩で出来上がったものでもない。極右歴史観は1980年代から徐々に明らかになり、2000年代に扶桑社などの教科書問題で論争の中心に立った。右翼歴史学は植民地支配を公に擁護する一方、明治維新以来の帝国主義時代を公然と称賛するナショナリズム(民族主義)に染まった。日本の権威ある岩波書店が日本歴史学の研究成果を集大成して2010年に発行した近現代史シリーズ(全10冊)には加藤も執筆者として参加したが、このシリーズは日本の進歩学界がどう変化したのかをよく見せてくれる。

代表的な征韓論者である西郷隆盛が大韓帝国の征伐を論議する場面。征韓論之図=日本国立国会図書館所蔵//ハンギョレ新聞社

アジア蔑視論で植民地正当化

 日本は中国を侵略するかなり前から、野蛮と未開の国として馬鹿にした。中国を「支那」と呼び「支那は匪賊の社会」で「中国人は近代国家を樹立する能力が欠けている」と主張したが、これは帝国主義国家が侵略を合理化して正当化する時によく使う論理だった。植民地として占領する国が、国際法を知らないとか、自治能力がないとか、相手をよく欺き信義がないとか、不潔である、などの論理を掲げて未開・野蛮の国と規定した後、彼らを発展させて文明化するために植民に入るという論理だった。小学校時代から中国人を「チャンコロ」「チャンチャン」「豚尾漢」だと思う教育を受けた日本帝国軍人は、中国人を自国を治めることができない劣等な民族と見なし、このような侮蔑と蔑視が土台となり、南京虐殺のような大規模な殺傷を敢行することができた。

 朝鮮に対する蔑視は中国より先に始まった。「日本の良心」と言われる歴史学者の家永三郎は、中国侵略が敢行された理由について、「長年にわたった日本人の対中国意識、日本国家の対中国政策を理解しなければ理解できない」として「その歪曲の原型は、朝鮮に対する意識・政策の歪曲として先に形成されているという事実にまず注目しなければならないだろう」と書いた。

 1万円の日本紙幣に顔が載る福沢諭吉は、開化を主張して富国強兵論と自由主義的価値観を説破した近代的啓蒙思想家として尊敬される人物だが、朝鮮に対する認識は極めて偏向した蔑視だった。

 福沢は「朝鮮は国ではない」と言いながら、「朝鮮人民は牛や馬、豚や犬だ」「朝鮮人の頑固無識さは南洋の未開人にも遅れを取らない」「朝鮮人の上流は腐敗した儒学者の巣窟で、下流は奴隷の群集である」と暴言を並べ立てた。このような妄言は、朝鮮人が本当にそうであるかよりは、「今、日本島を守ることにおいて最も近い防御線を構築しなければならない地は、間違いなく朝鮮地方」であるという主張を裏付けるための談論的布石であり、自分を先に欺く欺満的論理であり、相手に責任を押し付ける論理だった。

 日本や先進国が相手国に改革を強要する時、相手国が未開もしくは野蛮な国家であれば強要が正当化されるため、帝国主義国家は相手国の未開と野蛮の程度を過度に強調して自分の侵略を正当化する。野蛮と未開状態にある人民を発展させようとするならば、文明化された国が入り、彼らを教育して発展と自立を図らなければならず、そうするためには軍隊を派兵して占領したり植民地にしなければならないという福沢の論理が作られた。彼は他の隣国を植民地にするのは、本国の領土的・経済的利益を得ようとする行為ではなく、むしろ植民地を手伝う恩恵と認識した。福沢が説破した文明論、アジア蔑視、植民地支配という三角体制は、帝国の責任を回避する催眠論理だった。いまだに多くの日本人がこの論理に捕らわれている。

 極右勢力の歴史観が植民地支配に対して恩恵という誤った方向に導かれた認識を説破しているとすれば、進歩的知識人の認識の内には植民地が不在だったといえる。戦後時期、戦争責任を追及して日本学界で“天皇”と呼ばれた丸山眞男にも、アジアの民衆に対する視覚は完全になく、アジアに対する戦争責任という意識や朝鮮と台湾に対する視線も冷淡だった。

 一時期、学界で東アジア論が活発になり注目された中国文学研究者の竹内好は、中国人民には温情的態度を取ったが、植民地朝鮮に対しては無知で関心を持たなかった。竹内は「こちらでは何も知らない。実際に侵略する側は、侵略される側については分からない」と言ったが、本当にそうだった。

 朝鮮なしに東アジアの平和と未来を考えることはできないが、朝鮮は東アジアで数十年間、見えない透明な存在だった。日本の知識人が朝鮮を見ることができず、意識することができないということは、単に植民地朝鮮を念頭に置かないことだけを意味しない。朝鮮を見ることができないのは、結局、日本と日本の歴史を見ることができないということである。

資本主義が立つ「後進‐中進‐先進」排他的な人種観

 アジア太平洋戦争期に欺満的なアジア民族の解放と独立を掲げて戦争を起こした日本は、戦後に独立を果たした東南アジア諸国を商品の販売市場と考えて、再度浸透した。平和な経済戦争だった。

 帝国主義時代に横行した野蛮‐未開‐文明の段階論はすでに消えて、領土的帝国主義が横行した時代は過ぎ去った。しかし、資本主義が世界的範囲に広がり後進‐中進‐先進の経済発展段階論に形を変えた。経済成長を至高の目標と考える価値観は、貧困であるという理由で第三世界の後進国を排斥して見下し、下流階層を無視する排他的人種観と階級認識を生産する。日本帝国の歴史は、単に日本を非難することを越えて、現在私たちが成した現実を眺めさせてくれる。韓国は植民地から始まり経済大国に成長した唯一の国だろう。帝国を批判するだけではなく、韓国が経験した植民地の苦痛と挫折を忘れず、植民地合理化論理が異なる姿で私たちの前に現れないか、常に慎重に省察しなければならない。

キム・ドゥクジュン 韓国史学会会長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://h21.hani.co.kr/arti/society/society_general/47691.html韓国語原文入力:2019-10-09 13:49
訳M.S

<社説>10・10空襲から75年 軍備増強が惨劇を招いた

<社説>10・10空襲から75年 軍備増強が惨劇を招いた

 米軍上陸による激しい地上戦の前哨戦となった10・10空襲は、日本全国で76万人が犠牲となった無差別攻撃の始まりでもあった。
 早朝に始まった5次にわたる空襲は主に飛行場や港湾の軍事施設を標的としたが、攻撃対象は民間地域にも広がった。那覇市では大量の爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下し、学校など公共施設や民家を焼き払った。
 それだけではない。商業、交易の街として栄えた那覇の歴史や文化が一日にして壊滅した。復興のために市民の多大な労力と長い年月を要した。戦争のすさまじい破壊力はこの街の歴史と将来を奪った。
 なぜ沖縄が米軍の標的となり、壊滅的な空襲被害を受けたのかを考えたい。
 1944年3月に創設された第32軍は米軍の侵攻に備え、沖縄本島や周辺離島で飛行場や軍事施設の構築を推し進めた。その過程で多くの県民が動員された。米軍はこれらの飛行場や軍事施設を攻撃し、日本軍の弱体化を図った。
 日本軍は沖縄を日本本土防衛の防波堤とし、県民に対しては「軍官民共生共死」の方針を強いた。米軍は本土攻略に向けた戦略的な価値を沖縄に見いだした。太平洋を部隊とした日米両軍の戦闘が10・10空襲、翌年の沖縄戦へとつながり多大な県民の犠牲を生んだ。そのことから私たちは「戦争につながるものを許してはならない」という教訓を得たのである。
 今日、沖縄では日米双方による軍備増強が進められている。これは沖縄戦の悲劇から得た教訓に反するものであり、今日の県民の意思にも背くものだ。
 宮古島では陸上自衛隊ミサイル部隊の配備計画が進んでいる。既に宮古島駐屯地に、住民への説明がないまま中距離多目的誘発弾や迫撃砲は保管されていた。石垣島でも陸自駐屯地の工事が今年3月に始まった。いずれも地域住民の理解を得たとは言い難い。
 名護市辺野古では沖縄の民意に反し普天間飛行場の返還に伴う新基地建設が強行されている。さらに今月、核弾頭が搭載可能な中距離ミサイルを、沖縄をはじめとする日本に配備するという米計画が明らかになった
 10・10空襲や沖縄戦体験に照らせば、日米による沖縄の軍備増強は住民を守るものではない。むしろ危機に陥れる可能性が大きい。これらの動きに異議を申し立てるためにも10・10空襲を語り継がなければならない。
 75年前の悲惨な体験を踏まえ、平和を築くことが沖縄の未来に対する私たちの使命だと自覚したい。

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