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なぜ、弁護士は差別語「ブラック」が好きなのか?③

  

  

  


▼なぜ、弁護士は差別語「ブラック」が好きなのか?

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-8621.html

 

 上記のブログには漏れている箇所を以下の記事に追加した。いずれにせよ、上手く整理されていないので、いずれ書き直す。また上記ブログの題名は「なぜ、弁護士は差別語「ブラック」が好きなのか?②」と変更しておく。



澤藤統一郎のブログをブラックで検索すると・・・

https://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/40970329.html


澤藤統一郎のブログをブラックで検索すると・・・

ブラック度 
ブラックユーモア
ブラック官庁
ブラックボックス
ブラック企業
ブラックジョーク
ブラックパワー・サリュート

 トンデモ和製英語「ブラック」を大氾濫させている現在の日本低国では、最後のブラックパワー・サリュートだけが明らかに異質なことはすぐ分かる。多くの弁護士はブラックに悪を含意させることが大好きだが、澤藤統一郎が珍しくブラックパワー・サリュートと書くとき、日ごろの名誉白人思考とどう折り合いをつけているのだろうか?




△澤藤統一郎の憲法日記


“ニーダウン”と“ブラックパワー・サリュート”と、そして“君が代・不起立”と。

http://article9.jp/wordpress/?p=9076


スポーツは多彩だ。多彩なだけに、スポーツがみな見て面白いというわけでもない。
アメリカンフットボールなるもの、私には面白いともおかしいとも思えない。ところが、アメリカでは、これが最大の観客を集めるビッグスポーツなのだそうだ。プロリーグ(NFL)が一大産業であるだけでなく、大学アメリカンフットボールがまた盛んで、プロリーグの隆盛を支えているともいう。この人気が米国内に限られているのが興味深い。アメリカンフットボール世界大会などもあるようだが、注目度は極めて低い。盛りあがるのはNFLの国内試合だけ。

そのNFLの試合の都度、国旗(星条旗)を掲揚して、国歌(The Star-Spangled Banner)を唱うのが慣例のようだ。このときの国旗・国歌とはどんな作用を果たしているのだろうか。

国旗国歌の象徴としての作用には、対外的な識別機能と対内的な統合機能があると説かれる。NFLの場合、国際試合ではないのだから識別機能は問題とならず、もっぱら対内的な統合機能だけが働くことになる。

両チームとその応援者そして大観衆が、一つの旗を注視し、一つの歌を唱うことによって、情緒的な集団的一体感を醸成する。その一体感は、旗や歌が象徴する国家という抽象的な存在に集中する。まさしく国家に統合されることとなる。

かくして、NFLの試合のたびに、国旗と国歌の国民統合作用が多くの国民に印象づけられることになる。このスポーツの一大イベントは、国旗国歌を中心とする、一大国民意識確認セレモニーであるのだ。

だが、選手と観衆のすべてが、このような国民統合に肯定的であるとは限らない。そもそも国家という存在に個人が絡めとられることを潔しとしない立場もあろうし、国旗国歌を今ある現実の国家の象徴ととらえて、現政権への批判の立場から、国旗国歌への敬意の表明を拒絶するという立場もある。

とりわけ、国家が差別を容認するとき、差別される側は、とうてい国家に敬意を表することはできない。国民の一体が喪失され、差別する側の国と意識したとたんに、差別する側の国を象徴する旗や歌に敬意を表することはできなくなる。

ことは差別だけではない。国民として国家の不合理を容認し得ないとき、とうていその国の国旗も国歌も受け容れがたいこととなる。そのとき、国旗国歌を拒絶することが思想の表明行為となる。

人種差別を容認したトランプ政権への抗議が、NFL選手の国歌斉唱拒否の行動に表れているという。そのことを一昨日(8月23日)の近藤徹さんの、下記メールで教えられた。近藤さんは、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」の事務局長。定年前は英語の先生だから、いち早く、米国の情報をキャッチして伝えてくれる。

■2人の白人選手、NFLでこれまで最大の国歌斉唱時の抗議に加わる~ブラウンズの選手たち
*報道されていない必見の注目ニュース。
   ↓
アメリカ・インターネットニュース”SALON”
http://www.salon.com/2017/08/22/browns-national-anthem-protest-kneel/#.WZ0Qw
pdzpNc.facebook

日本のどの新聞も報じていない注目のニュースです。

米プロフットボールリーグ(NFL)で人種差別に抗議して国歌斉唱を拒否する動きが広がっている。

シーホークスのベネット選手が国歌斉唱を拒否してベンチに座り続けて抗議した(既報)のに続き8月21日(米時間)、今度はクリーブランド・ブラウンズの10名の選手がニューヨーク・ジャイアンツとの試合前の国歌斉唱時にひざまづいて人種差別に抗議の意思を表した。

これは「NFL史上最大のデモンストレーション」で、しかもこれも史上初だが、白人選手2名が黒人のチームメートに加わった。人種差別に抗議する黒人選手と白人選手の連帯の行動に拍手を送りたい。

上記”SALON”によると、10名の選手たちが、国歌演奏中輪を作って、祈る形で互いの肩に手を置いた。加えて5名の選手が立ったまま、ひざまづいているチームメートの肩に手を置き、連帯を表明した。何と計15名のブラウンズの選手が公然と抗議を表明し、内2名が白人だったのだ。

なお、この膝をつくポーズ(“ニーダウン”)は、2016年8月、NFLのサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのコリン・キャパニック選手がとったポーズと同じだ。
今後もこうした人種差別に抗議する行動がアメリカのスポーツ界に広がるかも知れない。

近藤さんは、「卒入学式で『君が代』斉唱時に起立せず、不当にも都教委に処分され、処分撤回を求めて裁判を闘っている私たちも励まされる。」とも言っている。

近藤さんが、メールを送信した頃は、「報道されていない必見の注目ニュース」だったが、その後幾つかの記事が出ている。

たとえば、スポニチ。詳細な報道になっている。
「NFLは21日にオハイオ州クリーブランドでプレシーズンの1試合を行ったが、ホームチームでもあるブラウンズの11選手が国歌斉唱の際、膝をついて整列しなかった。

 “ニーダウン”したのはRBデューク・ジョンソンJR(23歳)、ジェイミー・コリンズ(27歳)、QBディショーン・カイザー(21歳)といったアフリカ系アメリカンの選手が中心。しかし白人でプリンストン大出身のTEセス・ディバルブ(24歳)もこの輪の中に加わっており、NFL選手による抵抗運動は人種に関係なく拡大する気配を見せている。

 この行動は警察官による黒人射殺事件が続いた昨年からBLM(BLACK LIVES MATTER=黒人の命も大切)というフレーズとともに顕著になり、49ersのQBコリン・キャパニック(29歳)らはシーズン通して試合前に無言の抵抗を続けていた。今月になって白人至上主義団体をめぐるトランプ大統領の対応が各地で批判を浴び、昨年とは違った要因でNFLにBLM運動が再燃している。」

メキシコオリンピック(1968年)時の米黒人選手の黒人差別への抗議の行動が印象に深い。男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カーロスが、表彰式でアメリカ合衆国国歌が流れて星条旗が掲揚される間、壇上で首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げていた。あれが、“ブラックパワー・サリュート”だった。アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威の姿勢である。

“ニーダウン”も“ブラックパワー・サリュート”も、国家に対する抗議の行動。NFLのニーダウンは全米注視のなかで、トミー・スミスのブラックパワー・サリュートはオリンピックの表彰式というこの上ない晴れ舞台でのパフォーマンス。国家の象徴が国旗と国歌なのだから、具体的な抗議の行動の対象が、国旗国歌とならざるを得ない。強力な国家に対する象徴的な抗議の行為が、国旗国歌への敬意表明の拒絶となるのだ。

国家に対する国民の抵抗も抗議の行動も止めようがない。アメリカに人種差別が存在する限り、政権が差別を容認する姿勢である限り、“ニーダウン”も“ブラックパワー・サリュート”も続くことにならざるを得ない。

ひるがえって、都教委の「10・23通達」に基づく日の丸・君が代強制への不服従。こちらは、教員の思想や良心の救済行為としての貴重な抵抗である。この魂の抵抗も、教育の場での理不尽な強制が続く限りけっして途絶えることはない。国家の横暴に対する個人の良心の抵抗の灯はこの上なく貴重なものである。これを消してしまうようなことがあってはならない。多くの心ある人々の手で、守り抜いていかなければならないと思う。
(2017年8月25日)


△澤藤統一郎の憲法日記


「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」ーキャパニックの勇気

http://article9.jp/wordpress/?p=7421

ハフィントンポスト(日本版)やロイターが、写真とともに生き生きと伝えている。「米ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)サンフランシスコ・フォーティナイナーズのクォーターバック、コリン・キャパニック(28)は1日、サン・ディエゴで行われたプレシーズンの試合前の国歌斉唱時に両手を組んでひざまずき、人種差別や警官の暴力行為に対する抗議の意を示した。キャパニック選手は、有色人種を抑圧するような国の国旗に敬意は払えないとして、国歌斉唱時に不起立で抗議を表明すると述べ、賛否両論を招いている。」

9月1日のゲームは、たまたま、「サルート・ミリタリー・ナイト」と重なった。240人の水兵、海兵隊、兵士たちによるアメリカ国旗の進呈、そして退役した米海軍特殊部隊によるプレゲーム・パラシュート・ジャンプなどのイベントが行われた。そのような場での国旗国歌に対する抗議だったのだ。

米国で警官による黒人への武器使用事件が相次ぎ反差別運動が巻きおこっていることは周知のとおり。キャパニックは、これまでも反差別の意味で国歌斉唱に加わっていなかったが、8月26日の試合で広く注目された。9月1日にはチームメイトのエリック・リードも同調し国歌斉唱時にひざまずいた。そしてシーホークスのコーナーバック(CB)ジェレミー・レインも、9月1日に行われた別のナイトゲームで起立を拒否した、と報じられている。

コリン・キャパニックの名は日本人に広く知られていないだろう。2013年にフォーティナイナーズをスーパーボウルに導いたスーパースターだそうだ。そう言われてもよく分からない。年俸が最高クラスの1,900万ドル(約20億円)と聞けば、その格がほぼ想像が付く。

そのキャパニックは、警察の暴力に言及し、「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」「その国の国旗に対する誇りを示せない」と語っている。
さらに、「同選手は自分の決断が議論を招くことは十分に承知しているとしたうえで、『だれかに分かってもらおうとか、認めてもらおうとかいう意図はない。虐げられている人々のために立ち上がらなければという思いだ』『たとえフットボールを取り上げられても、選手資格を奪われても、正しいことのために立ち上がったと思える』と語った」(CNN日本語版)。

キャパニックの行動が物議を醸し賛否両論があるのは当然として、注目すべきは、けっして彼が孤立していないことだ。

フォーティナイナーズは同選手の決断を尊重するとの声明を発表。「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と表明した。またNFLは声明で、「国歌演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と指摘した(CNN)。

誰もが、1968年メキシコ五輪の男子200m走の表彰式で拳を掲げて抗議したトミー・スミス(金メダル)、ジョン・カーロス(銅メダル)を想起する。この二人はアメリカ国内の人種差別に抗議するために、星条旗が掲揚されている間中、ブラックパワー・サリュート(Black Power salute)という拳を高く掲げるポーズで、国旗国歌に抗議したのだ。

国旗国歌は国民を統合する機能をもつシンポルである。多様な国民を国家という組織に組み込む装置のひとつにほかならない。ところが国民を統合した国家が国民の差別をしているとなれば、そんな国家に敬意を払うことはできないと抗議する国民があらわれるのは当然のことだ。差別される少数の側は、国旗国歌を「差別する多数の側のシンボル」ととらえざるを得ない。自分を差別する国家のシンボルに敬意を表することができないとすることを、いったい誰に非難する権利があろうか。

米国では「国旗(The Stars and Stripes)」だけでなく「国歌(The Star-Spangled Banner)」も「星条旗」と訳される。これを「日の丸・君が代」との比較で考えたい。星条旗は英国からの独立闘争のシンボルであり、合衆国憲法の自由の理念のシンボルでもある。一方、「日の丸・君が代」は、野蛮な天皇制の侵略戦争と植民地支配とあまりに深く結びついたシンボルとなってしまった。この忌まわしい記憶は拭いがたい。

「日の丸・君が代」よりは、象徴するする理念においてずっと普遍性の高い「星条旗」も、差別や出兵への抗議で、そっぽを向かれるだけでなく、焼かれたり唾をかけられた受難の歴史を持つ。しかし、米国の司法は、国旗を侮辱する行為をも表現の自由として不可罰としてきた。日本でも、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制に抵抗感をもつ多くの人が現実にいる。どこの国であれ、国民が国家をどう評価するかは自由でなくてはならない。国家が、国民に「われを讃える旗と歌」を強制することなどあってはならない。社会が個人に、国旗や国歌への敬意表明を強制してはならない。

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」という、キャパニックの勇気を讃えたい。同時に、日本の社会も「日の丸君が代」への敬意表明強制に従えないという人を孤立させてはならない。ナショナリズムを超えた思想良心の自由に、寛容な態度を学ばねばならないと思う。
(2016年9月5日)


△澤藤統一郎の憲法日記

大阪府教委もブラック官庁だ

http://article9.jp/wordpress/?p=1197

この人の感覚は異常と評するしかない。憲法感覚において、社会感覚において、そして人間という存在の根源的な理解において。秩序感覚と権力志向のみが異様に発達して、他人の心情やプライドへの理解能力、共感能力が皆無である。基本的人権ということがまったく分かっていない。こんな人物が弁護士であることが理解できない。こういう人物に権力という玩具を与えてはならない。周りが迷惑することこの上ない。いや、橋下徹のことではない。その仲間の、中原徹のこと。

民間人校長として大阪府立立和泉高校長となり、2012年3月の卒業式で、教頭らに指示して、教職員が国歌斉唱の際に斉唱しているかを確認する「口元チェック」を指示して世論の非難を浴びた。もちろん、秩序派・橋下徹は「素晴らしいマネジメント」と賞賛したが、当時の大阪府教育委員長までが、「そこまでやらなくてもいいのではないか」とたしなめている。

その中原が、今年の4月大阪府の教育長に就任した。そして、今月4日府立学校の校長宛てに、「入学式や卒業式の君が代斉唱の際に教職員が実際に歌ったかどうか、管理職が目視で確認するよう求める通知」を発したという。「目視で確認」とは、「口元チェック」のことだ。年度末の卒業式に向けて、改めて全府立校に通知を出す方針だと報じられている。

「口元チェック」となると、思想・良心や表現の自由侵害(憲法19条・21条)などという精神的自由権侵害レベルの問題ではないのではないか。こんなやり方で、こんなところまで、人を追い込みプライドを傷つけることは、世上の用語で「人権侵害」というにふさわしい。つまりは、人間の尊厳を根底から損なう公権力の発動として、憲法13条違反レベルの問題として把握すべきこととなろう。

都立高校で、10・23通達が発出された際に、「自分には思想的な『日の丸・君が代』への違和感はない。だから、これまで少数派の教師の一人として、式では起立し斉唱してきた。しかし、職務命令として起立・斉唱を命じられたら立てない。歌えない。自分の信念として教育に強制はなじまず、教師が生徒の前で、強制に屈してはならないと思うからだ」という教師にお目にかかることができた。まさに、尊敬に値する教育者ではないか。

中原教育長の通知文の中に、「公務に対する府民の信頼を維持することが目的」と記載されているという。何たることか。本気で、教育への府民の信頼が「口元チェック」で獲得できると考えているのだろうか。あまりに貧しい発想というほかはない。およそ教育の場で語られる言葉ではない。

教育とは、個性豊かな教師と生徒との人格的接触によって成立するものだ。信念を貫く教師がいなければならない。「権力などは屁のような存在」「誰がなんと言おうと我が信念を貫く」という教師がいてこそ、硬骨な子どもが育つ。学校をロボットがロボットを製造する工場にしてはならない。

「口元チェック」は、パワハラであり、イジメである。チェックをされる教職員だけでなく、チェックをするよう命じられる校長や教頭にとってもだ。多くの良心的な教職員が気持ちを暗くし、心を傷つけ、教場を去ることになるだろう。都教委を「ブラック官庁」と言ってきたが、大阪府教委はさらにひどい。東西両都市が、ブラック度を競い合っている。ブラックユーモアにもならない。

ところで、府立校の校長やら教頭やらに、聞いてみたい。「あなた、口元チェックやりますか」「ほんとに、チェックして報告を上げますか」「こんな馬鹿げたことが校長の役目だと思いますか」「あなたは教育者ですか。教育行政の下僕ですか」「あなたの視線は、子供に向いていますか。それとも人事権者に向いているのですか」

大阪府の有権者にも聞いてみたい。「こんなアホな教育長を抱えて、大阪の恥やおまへんか」「口元チェックの学校に、子どもをやれますか」「大阪人は、そんなに『日の丸・君が代』大好きですか」「個性や自由や硬骨や叛骨は、お嫌いなのですか」「いつまで、橋下や中原のような連中に好き勝手なことをやらせておくつもりですか」


澤藤統一郎、トンデモ和製英語「ブラック」連発

https://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/38687517.html

     

以下は澤藤統一郎のブログより引用――

[従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室…、至るところにブラック集団がある。宇都宮選対はブラック選対であり、さしずめ悪口雑言を得意とする河添誠さんはその労務担当という役回りだった。]

 澤藤統一郎は「緑茶会」についてはちゃんと批判できたのに、トンデモ和製英語「ブラック」を使って「ブラック企業」に始まり、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室、ブラック集団、ブラック選対・・・、定義はといえば――「従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、・・・」。まさにトンデモ和製英語「ブラック」の乱れうち・・・。

 たとえば「ブラック教室」、ちょっと連想が難しいのだが(教師の子どもへのいじめのこと?、あるいはまた英会話教室などのいじめ?)、私は多分“いじめ”(子ども同士のいじめ)を想定してのレッテル貼りだと思うが、いじめについては、加害児童(生徒)がかつてはいじめの被害者、逆に被害児童(生徒)がかつてはいじめの加害者の場合もあり、いじめ集団を「ブラック集団」と呼んでいてはいじめの実態はなかなか見えてこない。またいじめの程度も言葉や無視から暴行傷害・恐喝まで幅広い。
 企業・官庁・病院など、各々の労働実態をあらわす適当な言葉があるはずなのに、トンデモ和製英語「ブラック」を使ってのレッテル貼りで終わりでは言葉を使う表現者としては失格である。


追記:いじめについては、加害者に厳罰を主張するいじめ問題の第一人者・内藤朝雄、それには異を唱える内田樹・小森美登里のいじめに関する発言を引用しておく。


▼澤藤統一郎の憲法日記
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10

http://article9.jp/wordpress/?p=1797

宇都宮君と「人にやさしい東京をつくる会」のだまし討ちでみごとに討ち取られ、リベンジの「宣戦布告」をしてから10日が経った。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズも、今日が「その10」である。

私は、10日前に、「自ら反みて直くんば、千万人と雖も吾往かん」(孟子)という、やや高揚した気分でルビコンを渡った。これまで付き合ってきた仲間からの孤立無援も、あるいは袋叩きも覚悟したうえでのこと。しかし、10日経って、「ルビコン」の対岸の景色もさして変わらぬことを知って、少し大袈裟だったかと苦笑している。

私がこのような形で、ルビコンを渡る決断をしたについては、河添誠さん(首都圏青年ユニオン)の発言に負うところが大きい。

彼は、12月19日の、だまし討ち決議をした会議の席(「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」)で、私にこう言っている。
「澤藤さん、あなたはいいよ。しかし、息子さんのことを本当に考えたことがあるのか。これから先、運動の世界で生きていこうと思ったら、そんなこと(会と宇都宮君の責任の徹底追及)をやってどうなると思う。よく考えた方が良い」

「それは恫喝か」「いや忠告です」「君がそのように言えば、君の人格が、君の言葉を恫喝にしてしまう。私には恫喝としか聞こえない」。これが最後の会話。私は、このときに、ルビコンを渡らねばならないと決意した。

河添誠さんの類似の発言は以前にもあった。総合して、彼の発言内容を、私はこう忖度した。
「ここに出席している運営会議のメンバーは、みんなそれぞれの革新的な政党や政治勢力あるいは民主運動、さらには民主的なメディアまでを背負っているのだ。その大きな革新・リベラル勢力の結集体として、『やさしい会』があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。そうすれば、あなたもあなたの息子も、この世界では大手を振っての活動できなくなる。あなたは老い先短いから、もう活動ができなくなってもよかろうが、将来ある身のあなたの息子さんについてはそれでよいとは言えないはずだ。息子のためを思って、会に刃向かうような愚かなことをしない方が良い。それでも、やるというなら、こちらも総力をあげて対抗して、思い知らせてやることになる」

発言者は河添誠さんただひとり。しかし、その場で彼をたしなめる者はなかった。私が感得したのは、議長を務めた宇都宮君を初めとするその他の出席者全員の暗黙の了解。そうか、そんな「会」なら、そんな宇都宮選対なら、私も覚悟を固めて徹底してやらなければならない。腰の引けていた私だったが、ようやくこれで決意ができた。はやり言葉で言えば、このときにようやく「倍返し」を決意した。

宇都宮君は、12月28日の「出馬意向表明記者会見」で、「今度はリベンジだ。倍返しで200万票を目指す」と言ったと聞く。しかし、倍返しの使い方を完全に間違えている。ドラマ「半沢直樹」が視聴率を上げ「社会現象」にまでなったのは、企業社会において不当な圧力に忍従を強いられているサラリーマン階層の共感を得たからだ。「倍返し」とは、サラリーマンだけでなく、この社会で不合理に鬱屈している弱者が夢みる、空想の抵抗の構図。こうあって欲しいというその願望の結実なのだ。だから、「倍返し」「リベンジ」を君が口にするとしらける。私こそ、君に、いや君が象徴した「運動の世界の不合理」に、「倍返しでリベンジ」をしなければならない。

従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室…、至るところにブラック集団がある。宇都宮選対はブラック選対であり、さしずめ悪口雑言を得意とする河添誠さんはその労務担当という役回りだった。

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私は、騙し討ちは嫌いだ。騙し討ちされるのが不愉快極まることは当然として、騙し討ちすることも性に合わない。私が、このブログで述べていることは、突然に言い始めたことではなく、事前に宇都宮君や選対メンバーには伝えてあることばかり。とりわけ、会の代表である中山武敏君には、電話で何度も伝えている。しかし、結局は、彼らが私の指摘を重大視することなく、何の対応をすることもなかった。

昨日お伝えした宇都宮君自身の選挙違反(運動員買収)の事実については、選挙が終わってしばらく、私は知らなかった。このことを私が知ったのは、岩波書店と熊谷伸一郎選対事務局長との関係を問題にしようとした際に、偶然宇都宮君自身から聞かされてのこと。

今年の2月のある夜。宇都宮君の法律事務所の一室で、会合があった。その席上、私は、熊谷伸一郎(岩波書店従業員)事務局長に質問した。

「あなたは、1か月も選対に詰めていたが、岩波からは有給休暇を取っていたのか」

既にこの頃は、私と他のメンバーとの亀裂は大きくなっていた。彼は、警戒してすぐには回答しようとしなかった。
「どうして、そんなことを聞くんですか」

私は、こう言った。
「たとえば、東電が自分の社員を猪瀬陣営の選挙運動に派遣して働かせたとする。有給休暇を取っての純粋なボランティアならともかく、給料を支払っての派遣であれば、まさに企業ぐるみ選挙。私たちは黙っていないだろう。それが味方の陣営であれば、あるいは岩波であれば許されると言うことにはならない」

このとき血相を変えんばかりの勢いで私を制したのが、高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会)さん。
「澤藤さん、そんなことを言うものじゃない。岩波と熊谷さんには、私たちがお願いして事務局長を引き受けてもらったんじゃないですか。その辺のところは、澤藤さんもご承知のはず。今ごろそんなことを言っちゃいけない」

助け船に勢いを得て、熊谷伸一郎事務局長(岩波)は「大丈夫ですよ。私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス制ですから」と言っている。

思いがけずに、このとき続いて宇都宮君が発言した。その発言内容を明確に記憶している。
「えー澤藤さん。岩波が問題なら、ボクだっておんなじだ。ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いしたんだから」

これには驚いた。本当は、続けて発問したかった。いったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの?…。しかし、制されて私は黙った。これ以上、彼らを刺激したら、大河(わたしの息子)と、とばっちりを受けたTさんの権利救済(名誉回復)の道は途絶えてしまうと考えてしまったからだ。

もちろん、私は、岩波書店従業員の熊谷伸一郎事務局長が、有給休暇をとって選挙運動にボランティアとして参加したとは考えていない。入社3年目の従業員が、あの時期にまるまる1か月の有給休暇が取れたはずはないからだ。また、彼が、真に有給休暇をとっていたとすれば、フレックス制に言及する必要はない。自ら有給休暇を取ってはいなかったことを自白したに等しい。なお、請負制の個人業者であればともかく、フレックスタイム制の従業員であったことが、公職選挙法違反を免責することにはならない。岡本厚岩波書店現社長も、選対メンバーのひとりである。熊谷伸一郎事務局長に便宜が図られたのであろうと考えている。

以上の経過のとおり、宇都宮君の選挙違反の事実は、彼自身の口から語られたもの。おそらくは、違法性の意識はなかったのだろう。しかし、この件での違法性の意識の欠如が故意の欠缺の理由にも責任阻却事由ともならない。犯罪の成立には何の影響も及ぼさない。

また、違法性の意識の可能性の存在は否定のしようもなく、疑うべくもない。宇都宮君は法律家だし、日弁連の会長までした身だ。法律を知りませんでした、というみっともない言い訳が通用するはずもない。

しかも、宇都宮君、君は革新統一の要の立場に立とうとしている。そのためには、極めて高い水準でのコンプライアンスの徹底が求められるのだ。君は既にその資格を失っている。

なによりも私は、選挙運動に派遣された君の法律事務所の事務員の方を気の毒に思う。君は、きちんと謝罪をしただろうか。彼/彼女らは、君の指示に従うしか術のない弱い立ち場だ。君は、その人たちに公選法違反の行為を指示したのだ。事務員の方には、君の指示を拒否する期待可能性がなく、犯罪が成立することにはならないだろう。また、捜査機関の君に対する訴追の可能性はともかく、事務員の方たちに及ぶ現実性はない。是非、そう説明してあげていただきたい。わたしの息子に対してしたような「忘恩」の態度ではなく、人への優しさを示していただきたい。

君が、再びの立候補をすれば、問題は再燃する。いろんな人に迷惑がかかる。それだけでなく、君の廉潔性の欠如は、到底革新統一候補にふさわしくない。だから、宇都宮健児君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013年12月30日)

★ 内藤朝雄

新刊『いじめの構造』の一部を公開します!
http://d.hatena.ne.jp/izime/20090316/p1

学校の集団生活によって生徒にされた人たちは、(1)自分たちが群れて付和雷同することによってできあがる、集合的な場の情報(場の空気!)によって、内的モードが別のタイプに切りかわる。と同時に、(2)その内的モードが切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が、次の時点の集合的な場のかたちを導く。(3)こうして成立した場の情報が、さらに次の時点の生徒たちの内的モードを変換する。この繰り返しから、前ページ図3(図3については、書籍59ページを見てください)のような、心理と社会が形成を誘導し合うループが生じる(図3は単純化して描かれているが、実際は螺旋(らせん)状のループである)。これは、個を内部から変形しつつ、個の内側ら個を超えて、社会の中で自己組織化していく作動系(システム)である。

★小森美登里

いじめ問題は「大人の勘違い」だらけ 「大好きな親には相談」「傍観者も加害者」は誤りです! 自死遺族が著書で訴え

http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/38553591.html

・・・

 小森さんは「いじめは被害者だけでなく、加害者や傍観者も被害者だという視点で取り組まないと、いじめの根本的解決にはつながらない」と強調する。

 「何回言ったら分かるんだ!」。加害者の子供を叱るとき、この言葉を発する先生も少なくない。しかし、小森さんは「子供は何回言われても分からないもの」と指摘。その上で、こう訴える。

 「子供たちは、大人と一緒に考え、一緒に答えを探して、見つかった答えを体現することしかできないのに、大人は『言えば伝わる』『怒れば伝わる』と思っている。一緒に考えることを忘れている大人に、子供たちと一緒に考え直してほしいと思う」

★内田樹(うちだたつる)

いじめについて
http://blog.tatsuru.com/2013/06/07_0838.php

・・・

はっきりした指標は「生け贄」の条件が「有徴的な少数者」に限定されなくなったということである。
現在の「いじめ」はできる限り多くの子どもが「いじめ」の加害者または傍観者となるように作り込まれている。「誰でも、どんなきっかけからでも「いじめ」の標的になりうる。集団の全員が「いじめ」の対象に選ばれるリスクを負っている。リスクが拡散した代わりに、標的として理不尽な攻撃に耐えなければいけない時間はそれだけ短くなる。少しの間だけ我慢していれば、いずれ「嵐」は去って、別の子どもが次の標的に繰り上がり、それまでの被害者は加害者か傍観者のポジションに移ることができる。そういうふうにして標的が一巡して、クラス全員の「手が汚れる」までいじめが拡散する。皮肉な言い方をすれば、「いじめ」は民主化されたのである。
被害が拡散するなら軽微になって結構なことじゃないかと思う人がいるかも知れないが、それは短見というものである。実際に起きるのは、全員が「いじめ」を「誰の身にでも起りうる、日常的な出来事」として容認する立場になるということである。
仮に「いじめ」の被害者となった子どもが、かつて一度も「いじめ」に加担したことも、傍観したこともなく、つねに「いじめ」と正面から戦って来たという場合、この子はたとえどれほど孤立していても「理は自分にある」と自分に言い聞かせることができる。そういう場合になら、人間はかなり長期にわたって理不尽な扱いに耐えられる。意地を張り続けることができる。もちろん、心理的負荷ゆえに、心身の不調や登校拒否といった症状を呈することはあるだろうが、自殺するところまではなかなか追い詰められない。
けれども、一度でも「いじめ」の加害者や傍観者である自分を正当化したことがあるものは、いじめを跳ね返すロジックを持たない。「嵐が過ぎるのを待つ」以外のソリューションを思いつかない。どれほど自分に対する「いじめ」が常軌を逸して執拗であったり、悪質であったりしても、それは「ちょっと、ひどいじゃないか」とは言えても、「間違っている」という批判の立場を採ることができない。「いじめ」の被害者が自分には正義を要求するだけの倫理的権利がないのでは・・・と疑いを持ってしまったら、もうふんばる足場がなくなる。今の「いじめ」では、子どもたちをそのような倫理的な無根拠に追い詰めるメカニズムが作動している。
だから、「いじめ」の解決策として、加害者に厳罰を与えればいいという立場を採る人に私は同意することができないのである。ほとんどのケースで、加害者はかつて被害者であり、被害者はかつて加害者であった。被害者・加害者の二元論的な分類を不能にする力学が働いている。メカニズムそのものが「悪」を生み出しているのであって、「悪い人間」がいるわけではない。倫理意識の例外的に高い子ども以外は誰でもが「いじめ」の加害者や傍観者にならざるを得ないようなメカニズムが現に働いているのである。そこが問題なのである。

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