社会でもっとも弱い立場の被差別少数派を日々言葉で傷つけながら、社会を変える運動だと?


社会でもっとも弱い立場の被差別少数派を日々言葉で傷つけながら、社会を変える運動だと?

2015/7/17(金) 午後 10:42

http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/39849374.html


 反権力運動が完璧でないことは当たり前だが、反権力運動での差別語を糾弾すると居直る愚者が後を絶たない。

 社会でもっとも弱い立場の被差別少数派を日々言葉で傷つけながら、社会を変える運動だと?冗談はよしてくれ!

 社会が良い方に変わって行く時、差別語は日々発見され続けるのですよ。

 あるいはこうも言える──

 社会が悪い方に変わって行くとき、そう歴史修正主義者が跋扈し始め、やがてそいつらが社会で主流になると、差別扇動表現を繰り返す珍奇な犯罪集団「在特会」なども現れはじめ差別語を撒き散らすようにもなる。

 しかしまあ、天皇から勲章貰った差別に鈍感な医学無知の呆れたモノカキの筒井康隆の撒き散らした害毒の影響のすごさよ。

 というわけで、差別語が駄目な理由が理解できる引用文をずらり──

▼小林健治『差別語不快語』にんげん出版

頁17──

なにが差別なのか、なにが差別語であるのかは、社会の進展によって大きく変化していきます。たとえば「めくら」にこめられた差別性は、近代になって、当事者みずからが声をあげることによってはじめて意識され、“差別語”として問題視されることになりました。たとえば、障害者に対する差別語を無自覚に使用していたテレビ・ラジオ・新聞に対して、大阪府の精神障害者団体などから、「『きちがい』といったことばをテレビやラジオ等でもちいないでほしい」という要望がなされたのは、1974年のことでした。その主旨を下記に抜粋します。

「すべての障害者とその家族は、心身障害にかかわりのある表現が、興味本位やその欠陥を無能悲惨な状態を示すものとしてあつかわれることに対し、被差別者としての憤りを感じている。・・・・・・興味本位のゼスチャーゲームはろうあ者に対する軽蔑であり、メクラ判、メクラ縞ということばは無能悲惨な状態を示すものと受けとっており、今まではそうした放送があるたびに、チャンネルを切り替えるといった消極的な態度を続けてきたが、今後は、社会の公器としての放送・新聞に対し、用語のもつ意味と与える影響を訴えていきたい。不用意に『きちがい』という用語がもちいられると家族は萎縮し、回復期にある患者にはショックを与える結果を招いている。どうか被差別者の心の痛みを、みずからの痛みと感じとってほしい。」
(1974年/全国精神障害者家族連合会の申し入れより抜粋)

 1970年ごろのテレビ・ラジオや新聞では、障害者に対する差別表現が、まだまだ無造作に使用されていた様子がうかがえます。それから40年を経た今日では、“障害者”という言葉自体も、差別性をふくむとして、「障害者」から「障がい者」へといった見直し作業がはじまっています。わたしたちは、「昔か使われてきた言葉だから」「辞書に載っているから」よしとするのではなく、いまの時代や社会意識状況に照らして、差別語の問題を絶えず問いつづけなければなりません。 

▼全国精神障害者家族会連合会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E5%AE%B6%E6%97%8F%E4%BC%9A%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A

精神分裂病から統合失調症の名称変更
1993年(平成5年)、誤ったイメージを与え、誤解や偏見を生むとして精神分裂病の病名を変更するよう社団法人日本精神神経学会に要望を出した。2001年
(平成13年)、朝日新聞30面全面広告(10月9日付)にて日本精神神経学会との連名で意見募集を行っている。さらに2002年 (平成14年)、朝日新聞19面(3月20日付)には名称変更に伴うインタビュー記事を掲載、下段には全家連が単独で広告を出している[4]。 2002年(平成14年)8月、日本精神神経学会総会の議決により、統合失調症に変更された。厚生労働省も、新名称の使用を全国に通知した。

▼小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』ちくま新書、2015年

頁187──
なぜ精神科通院歴を報道するのか

頁188──

 通院歴・病歴には、内科・歯科・眼科・耳鼻咽喉科などがあるはずなのに、なぜ取り立てて精神科のみ取り上げて記事化するのか?
 問題はハッキリしている。・・・中略・・・差別意識を記者自身が刷り込まれているからこそ、歯科・眼科などへの通院歴ではなく、精神科への通院歴を書いたということだろう。・・・中略・・・差別意識をもっていない人はいない。・・・中略・・・ジャーナリストもその例外ではない。しかし、マスコミは影響力が大きいだけに、ひと一倍差別問題についての深い理解が求められると私は思う。この事件をふくめ、すべての事件で、事件内容に関連あるか否かに関係なく、精神科への通院歴を書くべきではない。「刑事責任能力の有無を調べる」だけで充分ではないかと思う。


▼塩見鮮一郎『作家と差別語』明石書房、1993年

頁108――

・・・筒井康隆は、「めくら縞」は「目の不自由な人縞」というのかと茶化す
が、どんなに彼がおかしがって笑おうと、「めくら」を「目の不自由な 人」と言いかえることで、そして、そのことを日本語を使う人が覚えることで、社会的に変化をあたえているのである。その心理におよぼされた変化は、実際に盲人と接するときに微妙に影響してくるのである。また、筒井が「目の不自由な人縞」というふうな言葉を書くこと自体、彼がほんの少しでも盲人について考える時間を持ったことになる。被差別者にとって最悪な状態とは、差別者からしかと(無視)されたり避けて通られることだから、 ちょっとでもふりむいてもらえればそれでよい。・・・


▼田中克彦『差別語からはいる言語学入門』明石書房、2001年

頁18――

 差別語をめぐる議論にあきあきし、それが不毛だと感じた人たちの口からよく聞かれる意見の一つに、ことばだけとりかえてみても、そのことばが指している現実や事態が変わるわけではないというのがある。
 それは大部分その通りだが、そうではない点もある。というのは、ことばは現実のみならず、人々の意識、精神世界の領域のできごとを描き出そうとする。このことを否定する人はまずいないであろう。この本はまさにその問題ととりくんでみたものであるが、いま身近な例として、病気を指す名のことを考えてみよう。
 病名は、単にある病気を客観的に示すだけでなく、そこには多くの偏見がくっついている。ところが病気は医学の発達によって、それとたたかい、なおす方法が次々に開発されてくる。それによって病気への認識が変わってくれば、より適切な言いかたに変える必要が生まれるだろう。
 こうしてとりかえられたことばが指す病気そのものは依然同じであっても、そこにはより客観的で偏見がなく、そして病気で苦しむ人々に絶望ではなく希望を与えるはたらきがあるとするならば、私たちはもちろん、そのようなニュアンスを持ったことばにとりかえる必要がある。
 このように考えると、ことばのたたかいは、観点――ものの見方のたたかいでもある。

▼塩見鮮一郎『作家と差別語』明石書房、1993年

頁34――
 教科書「国語Ⅰ」の新版に収録された「無人警察」を読み、てんかんの記述に、読者として疑問を覚えたのは、千葉県の公立高校の先生だった。
 差別は、いつもこうしてだれかによって発見(創造)されるのである。「無人警察」については刊行後28年たっていたことになる。28年間、差別に関してはなんのことはない小説だった。
 もう一度,確認しておこう。
 「無人警察」のてんかんについての記述は、社会的に認知されていたのだ。作者はずっと今日まで手を入れていない。作品は変化していない。
 変わったのは社会のほうだ。社会が変わったために、作品のうちに差別があると思えだした。それにイの一番気づいた読者が、千葉県の先生だったことになる。


▼小林健治『差別語不快語』にんげん出版、2011年

頁79――

■てんかんをもつ人々への差別
――筒井康隆氏へのてんかん協会の抗議をめぐって

 まずは事例を紹介します。
 1993年、・・・

・・・問題となった箇所には、以下のように書かれています。


 「無人警察」の巡査ロボットは「小型の電子頭脳のほかに、速度検査機、アルコール摂取量探知機、脳波測定器なども内蔵している。歩行者がほとんどないから、この巡査ロボットは、車の交通違反を発見する機能だけを備えている。速度検査機は速度違反、アルコール摂取量探知機は飲酒運転を取り締まるための装置だ。また、てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だから、脳波測定器で運転者の脳波を検査する。異常波をだしている者は、発作を起こす前に病院へ収容されるのである・・・・・」
 そして、その巡査ロボットに気づかれた主人公は、「わたしはてんかんではないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪いことをした覚えもないのだ」と考える。

 日本てんかん協会は、この「異常波をだしている者は、発作を起こす前に病院へ収容されるのである」という表現は、てんかんを医学や福祉の対象としてではなく、とり締まりの対象として見ており、てんかん患者の人権を無視していると抗議しました。
 筒井康隆氏はこれに対する反論の主旨をつぎのようにのべています。

 「(略)是非ご理解戴きたいのは、てんかんを持つ人に運転をしてほしくないという小生の気持ちは、てんかん差別につながるものでは決してないということです。てんかんであった文豪ドストエフスキーは尊敬するが、彼の運転する車には乗りたくないし、運転してほしくないという、ただそれだけのことです。」

■欠落条項に見える障害者へのまなざし
 この筒井氏への反論に対しては、「欠落条項」により、自動車の運転など、社会生活上必要な手段を奪われている人から、強い批判がなされています。その批判の主眼は、障害者の社会権・交通権にかかわる問題です。運転免許交付の原則は、身体障害や精神障害の有無に関係なく、その人自身が安全運転できるか否かを基準にすべきであり、「保安処分」観点から判断すべきではありません。・・・略・・・

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