インドにおける色の価値観の変遷 ②


インドにおける色の価値観の変遷 ②

2015/7/11(土) 午後 8:17

http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/39837421.html

 まず初めに何度も紹介している津田幸男の記事──

▼津田幸男『英語支配とは何か――私の国際言語政策論』明石書店、2003年

頁111――

●英語の差別イデオロギー
 言語には差別的機能が備わっており、英語も例外ではない。人間にはもともと、自分や自分の属しているグループには、プラスのレッテルを貼り、他人や他集団――特に敵対していたり、軽蔑、あるいは支配している場合――に対しては、マイナスのレッテルを貼り、差別しようという意識があるようだ。(これは社会学では、「ラベリング」(注15)と呼んでいる)。
 この「ラベリング」を正当化していくのが言語の語彙であろう。つまり、相手にマイナスのレッテルを貼るための具体的なことばが必要となる。もともと白人の言語である英語の語彙が、有色人種に対して、いかにマイナスのラベリングを付けてきたか、実例を見ながら検討していこう。
 まず、‘white-black’という一対のことばが思い浮かぶ。‘white’は白人を指し、それは白人によって、限りなくプラスで正しいものを指し示すことばとして、使われつづけるのである。その反対に、‘black’は黒人を示し、それは限りなく暗く、邪悪な意味あいのものの象徴として使われている。
 たとえば、わたしの手元にある『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)の、‘white’の項を見てみよう。形容詞の項目には22の意味がリストアップされているが、そのうち、‘white’のマイナス・イメージを示す意味は第5、第6項目の「青ざめた、青白い」「音色の響き、暖かさなどの欠けた」の2項目のみであり、一方で、プラスの意味を想起させるものが圧倒的に多い。
 それらは、「正直な、公正な」(第16項目)、「縁起のよい」(第17項目)、「よごれのない」(第18項目)、「罪(けがれ)のない、清浄な、潔白な」(第19項目)、「悪意のない、害のない」(第20項目)、の合計5項目にのぼっている。
 それでは、‘black’の意味はどうであろうか。再び、前出の『ランダムハウス英和大辞典』を調べてみよう。‘black’の形容詞の部分には15項目が掲げられているが、そのうち、わずかにプラスの意味を含むものは、「全くの、徹底的な」(第14項目)の一つのみで、残りのほとんどは著しく否定的な意味を含むものばかりである。
それらは、「よごれた、きたない」(第4項目)、「まっ暗の、やみの」(第5項目)、「陰気な」(第6項目)、「不吉な、険悪な」(第7項目)、「故意の、たくらんだ」(第6項目)、「腹黒い、よこしまな」(第9項目)、「荒廃地の」(第10項目)、「非難されるべき、不名誉な」(第11項目)、そして「不正な、やみ値の」(第15項目)の、合計9項目にわたり、‘black’がいかに、マイナスのレッテルとして使われているかがよくわかる。
 このように‘white’がおおむね「善と公正」を指し示すために使われ、‘black’が、「悪と不正と汚れ」を示すために使われていることと、‘white’が白人を指し、‘black’が黒人をさすということばの使われ方は、任意のものではなく、作為的なものであろう。
 言い換えれば、白人達は、自分達を‘white’と呼ぶことにより、自分達に「純白」のレッテルを貼った。それと同時に、奴隷達を‘black’という「邪悪な」レッテルの中に閉じこめ、彼らを徹底的に「罵倒」することにより、支配しやすくしようとしたのであろう。要するに、白人達の奴隷達に対する差別感を確立、維持、正当化するために、‘blackの意味合い(コノテーション)は、限りなく、マイナスのイメージを帯びていったのであろう。言い換えると、ことばの意味と使い方をつくり出している人々――つまりネイティブ・スピーカー――の意識が差別的であり、それが、言語の中に映し出されたのであろう。
 それを証明するために、日本語の「白」と「黒」の意味を比較してみると、よくわかる。『広辞苑』の「白」の項をみてみると、・・・略・・・


*****


 上記、引用の「略」以下は、自分で辞書で調べてもらえばすぐ分かることだが、「黒」の項目など3つぐらいで、3つめに警察用語の「犯罪の容疑があること」が載っているぐらいだ。

 だがしかし、トンデモ和製英語「ブラック」(「ブラック企業」・「ブラック大学」など)が解き放たれた今は、「ブラック」があらゆる悪を含意して使われているから、当然日本語の黒も悪影響を受けるだろう。

 よって以下のような私の言葉は、今では「引かれ者の小唄」のようなものだ。

 日本の警察権力が単純思考で私たちを「白」か「黒」(注:「警察はその男をクロとみている」などと使われる)かと判断しているからといって、私たちがその思考法を真似て「黒」を犯罪と結び付ける思考をしていては駄目である。よって「腹黒い」などという言葉はなるべく使わない方がよい。陰謀や悪巧みを持った人間とは限りなく犯罪者に近いが、世の中の常として、権力者が常にそうであり(テロ国家アメリカのオバマを見ればすぐ分かる。悪巧みと陰謀でシリア侵略を企んでいる)、警察とはそれに反対する市民を捕まえる側である。警察思考はその警察に捕まえられる側の市民には決してなじまないのである。「白」と「黒」の世界は囲碁やオセロだけで十分である。

 さて、今はやりのトンデモ和製英語「ブラック」(「ブラック企業」・「ブラック大学」など)を使う我ら日本人は、英語帝国主義下ゆえに変な和製英語を無理して使い、結局は英語無知の愚劣を晒し、おまけに悪を含意して「ブラック」をばらまいているのだから、なんのことはない、日本人は白人英語のブラックの意味に近づけているわけで、トンデモ和製英語「ブラック」を使って日本人は名誉白人化するのである。この愚行は米国の50年前の「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動と対立するのもので、まさに人間の退歩である。

 さて、私は“色に価値を持ち込む非科学”について何度も書いているが、歴史はといえば、科学の衣をまとって差別・偏見がばらまかれ、植民者に利用されたのである。

▼『人種概念の普遍性を問う 西洋的パラダイムを超えて』竹沢泰子・編、人文書院、2005年
頁342──

 こうしてケトカルは、インド社会は人々を皮膚の色や形質学的な人種ではなく、浄性という「内面的な資格」や「ふさわしい行為」などをもとに分類したとする見方をくり返している。強調しなければならないのは、インド社会にイギリス支配がまだ確立していない時期には、「白」の優越性に関する神話は根づいていなかったことである。ケトカルによる次のような話はこの点を十分に示すものである。「マラーター地方で10年ほど前に実際にあった話を知っている。イギリスと日本から戻った2人の若者が、バラモンから課された罰金に従った。前者はムレッチャの国に行き、後者はアーリヤの国に行ったが、海を渡る途上で然るべき儀礼を行わなかったために、それぞれ、150ルビーと120ルビーを課された」。同書の出版年から、この出来事は、イギリス支配がまだ確立していなかった19世紀末期ことと推察される。イギリス人または白人は、当時「優れている」とは見なされてはおらず、むしろ「ジャーティ」で見ると不浄なムレッチャとして劣位に置かれていたのである。それゆえ、議論のまとめとして、マズムダールから引用しておこう。「かつて『高貴な人』という意味をもっていたアーリヤという言葉が、民族と結合し、『白色コーカサス人』という人種的なカテゴリーへと変容したのは、18世紀後半のことなのだ」。

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