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澤藤統一郎、トンデモ和製英語「ブラック」連発

澤藤統一郎、トンデモ和製英語「ブラック」連発
2014/1/3(金) 午前 6:02

 以下は澤藤統一郎のブログより引用――

[従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室…、至るところにブラック集団がある。宇都宮選対はブラック選対であり、さしずめ悪口雑言を得意とする河添誠さんはその労務担当という役回りだった。]

 澤藤統一郎は「緑茶会」についてはちゃんと批判できたのに、トンデモ和製英語「ブラック」を使って「ブラック企業」に始まり、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室、ブラック集団、ブラック選対・・・、定義はといえば――「従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、・・・」。まさにトンデモ和製英語「ブラック」の乱れうち・・・。

 たとえば「ブラック教室」、ちょっと連想が難しいのだが(教師の子どもへのいじめのこと?、あるいはまた英会話教室などのいじめ?)、私は多分“いじめ”(子ども同士のいじめ)を想定してのレッテル貼りだと思うが、いじめについては、加害児童(生徒)がかつてはいじめの被害者、逆に被害児童(生徒)がかつてはいじめの加害者の場合もあり、いじめ集団を「ブラック集団」と呼んでいてはいじめの実態はなかなか見えてこない。またいじめの程度も言葉や無視から暴行傷害・恐喝まで幅広い。
 企業・官庁・病院など、各々の労働実態をあらわす適当な言葉があるはずなのに、トンデモ和製英語「ブラック」を使ってのレッテル貼りで終わりでは言葉を使う表現者としては失格である。


追記:いじめについては、加害者に厳罰を主張するいじめ問題の第一人者・内藤朝雄、それには異を唱える内田樹・小森美登里のいじめに関する発言を引用しておく。


▼澤藤統一郎の憲法日記
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10

http://article9.jp/wordpress/?p=1797

宇都宮君と「人にやさしい東京をつくる会」のだまし討ちでみごとに討ち取られ、リベンジの「宣戦布告」をしてから10日が経った。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズも、今日が「その10」である。

私は、10日前に、「自ら反みて直くんば、千万人と雖も吾往かん」(孟子)という、やや高揚した気分でルビコンを渡った。これまで付き合ってきた仲間からの孤立無援も、あるいは袋叩きも覚悟したうえでのこと。しかし、10日経って、「ルビコン」の対岸の景色もさして変わらぬことを知って、少し大袈裟だったかと苦笑している。

私がこのような形で、ルビコンを渡る決断をしたについては、河添誠さん(首都圏青年ユニオン)の発言に負うところが大きい。

彼は、12月19日の、だまし討ち決議をした会議の席(「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」)で、私にこう言っている。
「澤藤さん、あなたはいいよ。しかし、息子さんのことを本当に考えたことがあるのか。これから先、運動の世界で生きていこうと思ったら、そんなこと(会と宇都宮君の責任の徹底追及)をやってどうなると思う。よく考えた方が良い」

「それは恫喝か」「いや忠告です」「君がそのように言えば、君の人格が、君の言葉を恫喝にしてしまう。私には恫喝としか聞こえない」。これが最後の会話。私は、このときに、ルビコンを渡らねばならないと決意した。

河添誠さんの類似の発言は以前にもあった。総合して、彼の発言内容を、私はこう忖度した。
「ここに出席している運営会議のメンバーは、みんなそれぞれの革新的な政党や政治勢力あるいは民主運動、さらには民主的なメディアまでを背負っているのだ。その大きな革新・リベラル勢力の結集体として、『やさしい会』があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。そうすれば、あなたもあなたの息子も、この世界では大手を振っての活動できなくなる。あなたは老い先短いから、もう活動ができなくなってもよかろうが、将来ある身のあなたの息子さんについてはそれでよいとは言えないはずだ。息子のためを思って、会に刃向かうような愚かなことをしない方が良い。それでも、やるというなら、こちらも総力をあげて対抗して、思い知らせてやることになる」

発言者は河添誠さんただひとり。しかし、その場で彼をたしなめる者はなかった。私が感得したのは、議長を務めた宇都宮君を初めとするその他の出席者全員の暗黙の了解。そうか、そんな「会」なら、そんな宇都宮選対なら、私も覚悟を固めて徹底してやらなければならない。腰の引けていた私だったが、ようやくこれで決意ができた。はやり言葉で言えば、このときにようやく「倍返し」を決意した。

宇都宮君は、12月28日の「出馬意向表明記者会見」で、「今度はリベンジだ。倍返しで200万票を目指す」と言ったと聞く。しかし、倍返しの使い方を完全に間違えている。ドラマ「半沢直樹」が視聴率を上げ「社会現象」にまでなったのは、企業社会において不当な圧力に忍従を強いられているサラリーマン階層の共感を得たからだ。「倍返し」とは、サラリーマンだけでなく、この社会で不合理に鬱屈している弱者が夢みる、空想の抵抗の構図。こうあって欲しいというその願望の結実なのだ。だから、「倍返し」「リベンジ」を君が口にするとしらける。私こそ、君に、いや君が象徴した「運動の世界の不合理」に、「倍返しでリベンジ」をしなければならない。

従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室…、至るところにブラック集団がある。宇都宮選対はブラック選対であり、さしずめ悪口雑言を得意とする河添誠さんはその労務担当という役回りだった。

 ***********************************************************************

私は、騙し討ちは嫌いだ。騙し討ちされるのが不愉快極まることは当然として、騙し討ちすることも性に合わない。私が、このブログで述べていることは、突然に言い始めたことではなく、事前に宇都宮君や選対メンバーには伝えてあることばかり。とりわけ、会の代表である中山武敏君には、電話で何度も伝えている。しかし、結局は、彼らが私の指摘を重大視することなく、何の対応をすることもなかった。

昨日お伝えした宇都宮君自身の選挙違反(運動員買収)の事実については、選挙が終わってしばらく、私は知らなかった。このことを私が知ったのは、岩波書店と熊谷伸一郎選対事務局長との関係を問題にしようとした際に、偶然宇都宮君自身から聞かされてのこと。

今年の2月のある夜。宇都宮君の法律事務所の一室で、会合があった。その席上、私は、熊谷伸一郎(岩波書店従業員)事務局長に質問した。

「あなたは、1か月も選対に詰めていたが、岩波からは有給休暇を取っていたのか」

既にこの頃は、私と他のメンバーとの亀裂は大きくなっていた。彼は、警戒してすぐには回答しようとしなかった。
「どうして、そんなことを聞くんですか」

私は、こう言った。
「たとえば、東電が自分の社員を猪瀬陣営の選挙運動に派遣して働かせたとする。有給休暇を取っての純粋なボランティアならともかく、給料を支払っての派遣であれば、まさに企業ぐるみ選挙。私たちは黙っていないだろう。それが味方の陣営であれば、あるいは岩波であれば許されると言うことにはならない」

このとき血相を変えんばかりの勢いで私を制したのが、高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会)さん。
「澤藤さん、そんなことを言うものじゃない。岩波と熊谷さんには、私たちがお願いして事務局長を引き受けてもらったんじゃないですか。その辺のところは、澤藤さんもご承知のはず。今ごろそんなことを言っちゃいけない」

助け船に勢いを得て、熊谷伸一郎事務局長(岩波)は「大丈夫ですよ。私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス制ですから」と言っている。

思いがけずに、このとき続いて宇都宮君が発言した。その発言内容を明確に記憶している。
「えー澤藤さん。岩波が問題なら、ボクだっておんなじだ。ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いしたんだから」

これには驚いた。本当は、続けて発問したかった。いったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの?…。しかし、制されて私は黙った。これ以上、彼らを刺激したら、大河(わたしの息子)と、とばっちりを受けたTさんの権利救済(名誉回復)の道は途絶えてしまうと考えてしまったからだ。

もちろん、私は、岩波書店従業員の熊谷伸一郎事務局長が、有給休暇をとって選挙運動にボランティアとして参加したとは考えていない。入社3年目の従業員が、あの時期にまるまる1か月の有給休暇が取れたはずはないからだ。また、彼が、真に有給休暇をとっていたとすれば、フレックス制に言及する必要はない。自ら有給休暇を取ってはいなかったことを自白したに等しい。なお、請負制の個人業者であればともかく、フレックスタイム制の従業員であったことが、公職選挙法違反を免責することにはならない。岡本厚岩波書店現社長も、選対メンバーのひとりである。熊谷伸一郎事務局長に便宜が図られたのであろうと考えている。

以上の経過のとおり、宇都宮君の選挙違反の事実は、彼自身の口から語られたもの。おそらくは、違法性の意識はなかったのだろう。しかし、この件での違法性の意識の欠如が故意の欠缺の理由にも責任阻却事由ともならない。犯罪の成立には何の影響も及ぼさない。

また、違法性の意識の可能性の存在は否定のしようもなく、疑うべくもない。宇都宮君は法律家だし、日弁連の会長までした身だ。法律を知りませんでした、というみっともない言い訳が通用するはずもない。

しかも、宇都宮君、君は革新統一の要の立場に立とうとしている。そのためには、極めて高い水準でのコンプライアンスの徹底が求められるのだ。君は既にその資格を失っている。

なによりも私は、選挙運動に派遣された君の法律事務所の事務員の方を気の毒に思う。君は、きちんと謝罪をしただろうか。彼/彼女らは、君の指示に従うしか術のない弱い立ち場だ。君は、その人たちに公選法違反の行為を指示したのだ。事務員の方には、君の指示を拒否する期待可能性がなく、犯罪が成立することにはならないだろう。また、捜査機関の君に対する訴追の可能性はともかく、事務員の方たちに及ぶ現実性はない。是非、そう説明してあげていただきたい。わたしの息子に対してしたような「忘恩」の態度ではなく、人への優しさを示していただきたい。

君が、再びの立候補をすれば、問題は再燃する。いろんな人に迷惑がかかる。それだけでなく、君の廉潔性の欠如は、到底革新統一候補にふさわしくない。だから、宇都宮健児君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013年12月30日)

★ 内藤朝雄

新刊『いじめの構造』の一部を公開します!
http://d.hatena.ne.jp/izime/20090316/p1

学校の集団生活によって生徒にされた人たちは、(1)自分たちが群れて付和雷同することによってできあがる、集合的な場の情報(場の空気!)によって、内的モードが別のタイプに切りかわる。と同時に、(2)その内的モードが切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が、次の時点の集合的な場のかたちを導く。(3)こうして成立した場の情報が、さらに次の時点の生徒たちの内的モードを変換する。この繰り返しから、前ページ図3(図3については、書籍59ページを見てください)のような、心理と社会が形成を誘導し合うループが生じる(図3は単純化して描かれているが、実際は螺旋(らせん)状のループである)。これは、個を内部から変形しつつ、個の内側ら個を超えて、社会の中で自己組織化していく作動系(システム)である。

★小森美登里

いじめ問題は「大人の勘違い」だらけ 「大好きな親には相談」「傍観者も加害者」は誤りです! 自死遺族が著書で訴え

http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/38553591.html

・・・

 小森さんは「いじめは被害者だけでなく、加害者や傍観者も被害者だという視点で取り組まないと、いじめの根本的解決にはつながらない」と強調する。

 「何回言ったら分かるんだ!」。加害者の子供を叱るとき、この言葉を発する先生も少なくない。しかし、小森さんは「子供は何回言われても分からないもの」と指摘。その上で、こう訴える。

 「子供たちは、大人と一緒に考え、一緒に答えを探して、見つかった答えを体現することしかできないのに、大人は『言えば伝わる』『怒れば伝わる』と思っている。一緒に考えることを忘れている大人に、子供たちと一緒に考え直してほしいと思う」

★内田樹(うちだたつる)

いじめについて
http://blog.tatsuru.com/2013/06/07_0838.php

・・・

はっきりした指標は「生け贄」の条件が「有徴的な少数者」に限定されなくなったということである。
現在の「いじめ」はできる限り多くの子どもが「いじめ」の加害者または傍観者となるように作り込まれている。「誰でも、どんなきっかけからでも「いじめ」の標的になりうる。集団の全員が「いじめ」の対象に選ばれるリスクを負っている。リスクが拡散した代わりに、標的として理不尽な攻撃に耐えなければいけない時間はそれだけ短くなる。少しの間だけ我慢していれば、いずれ「嵐」は去って、別の子どもが次の標的に繰り上がり、それまでの被害者は加害者か傍観者のポジションに移ることができる。そういうふうにして標的が一巡して、クラス全員の「手が汚れる」までいじめが拡散する。皮肉な言い方をすれば、「いじめ」は民主化されたのである。
被害が拡散するなら軽微になって結構なことじゃないかと思う人がいるかも知れないが、それは短見というものである。実際に起きるのは、全員が「いじめ」を「誰の身にでも起りうる、日常的な出来事」として容認する立場になるということである。
仮に「いじめ」の被害者となった子どもが、かつて一度も「いじめ」に加担したことも、傍観したこともなく、つねに「いじめ」と正面から戦って来たという場合、この子はたとえどれほど孤立していても「理は自分にある」と自分に言い聞かせることができる。そういう場合になら、人間はかなり長期にわたって理不尽な扱いに耐えられる。意地を張り続けることができる。もちろん、心理的負荷ゆえに、心身の不調や登校拒否といった症状を呈することはあるだろうが、自殺するところまではなかなか追い詰められない。
けれども、一度でも「いじめ」の加害者や傍観者である自分を正当化したことがあるものは、いじめを跳ね返すロジックを持たない。「嵐が過ぎるのを待つ」以外のソリューションを思いつかない。どれほど自分に対する「いじめ」が常軌を逸して執拗であったり、悪質であったりしても、それは「ちょっと、ひどいじゃないか」とは言えても、「間違っている」という批判の立場を採ることができない。「いじめ」の被害者が自分には正義を要求するだけの倫理的権利がないのでは・・・と疑いを持ってしまったら、もうふんばる足場がなくなる。今の「いじめ」では、子どもたちをそのような倫理的な無根拠に追い詰めるメカニズムが作動している。
だから、「いじめ」の解決策として、加害者に厳罰を与えればいいという立場を採る人に私は同意することができないのである。ほとんどのケースで、加害者はかつて被害者であり、被害者はかつて加害者であった。被害者・加害者の二元論的な分類を不能にする力学が働いている。メカニズムそのものが「悪」を生み出しているのであって、「悪い人間」がいるわけではない。倫理意識の例外的に高い子ども以外は誰でもが「いじめ」の加害者や傍観者にならざるを得ないようなメカニズムが現に働いているのである。そこが問題なのである。

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