共犯者の証言と確率論

 園子温の映画といえば、5、6年前を思い出す。ある映画館で若者(女子)の行列ができていて、それを不思議に思い、家に帰りネットで調べたら、その映画には歌手グループのボーカルが出ていて、それで謎が解けたという記憶がある。だって件の映画館は良心的な映画の上映が多く、元々客の行列などあり得ない映画館なのである。
 その映画は『愛のむきだし』(2008年)であり、今振り返れば、満島ひかり・安藤サクラが出ていて、彼女らのファンならば必見かもしれない。で、若者のお目当てはといえば、音楽グループAAAの西島隆弘であった。
 さて映画の感想だが、それがまったくないのである。書きようがないのである。主題を新興宗教にでも絞れば多少まともな映画になったのかもしれないが、園子温自体にその気概はないであろう。まあ要するに彼には本質に迫る知恵がないのかもしれない。

 で、ここでの話題は当然、園子温の『冷たい熱帯魚』になる。愚劣な映画だけなら罪はないが、映画の場面の元ネタが元々作り話なのに、それを事実だと誤認して映画の場面にすることなど、本来あってはならないことだ。周防正行の『それでもボクはやってない』という良質な映画があったのに、映画がトンデモ司法の片棒を担ぐなどということは映画人としては恥である。

 さて話は変わり、「よくできた話は、不満足な説明よりも蓋然性が低いことがよくある」という話題である。私が言うのは、まあ情報提供者の作り話の具体性は、実はその話の実際の発生確率も下げていくということである。人は錯覚するから、たとえば、「被告は死体発見後に犯行現場を去った」と「被告は死体発見後、そのおぞましい事件で被疑者とされるのを恐れ、犯行現場を去った」とを比較して、蓋然性は後者の方が低いにもかかわらず、具体的でより現実感が増すために後者の方がより起こったであろうと判断するというわけだ。
(以上参照、レナード・ムロディナウ 『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』 田中 三彦/翻訳、 ダイヤモンド社 、2009/9/17)

 集合A、集合B、集C、・・・・・・の集合を増やしていくのが、情報提供者の話の具体性が上がることだが、全ての集合を満たさないことには現実の事件を再現できないゆえ、当然再現の確率がどんどん下がるわけである。早い話が、犯人は犯行時白い靴下をはいていたという証言は、被疑者が当時赤い靴下をはいていれば、それだけで被疑者は無実になる可能性があるということだ。というわけで、上記の知識を前提にして、以下の山崎の記述を見て欲しい。

▼志摩永幸『愛犬家殺人事件』(角川文庫、2000年)

頁141――
 
 「包丁は用意したから、まな板とか、他の物を用意しろ。バスクリンがいいな。台所か。バスクリンもあるだけ持ってきてくれ」
 関根はそう言うと、風呂場の中に入り、浴槽の底に栓をして水を溜め始めた。また、あれが始まるのだ。
 奴の言葉に頷いて台所の方に向かった時、風呂場の方にやってきた博子とすれ違った。博子はTシャツと派手な花柄のスパッツに着替えていた。普段は地味な格好をしている博子だが、水商売の女でもなければ履かないような派手なラメ入りのサンダルまで履いている。博子は犬舎のログハウスから持ち出してきた白い手提げバッグを持っていた。すれ違う時、上から覗くと中が見えた。新聞紙に包まれた細長い包みと、数本の健康ドリンクの瓶だった。

****

 「よくできた話は、不満足な説明よりも蓋然性が低いことがよくある」のであるが、では突飛だが具体的な話を多く含む場合はどうなのだろう?蓋然性は極めて低くくなるのではないのか? 
 で、風間博子さんの弁護人はといえば当然以下のように指摘する――

▼派手なスパッツ・ラメ入りのサンダル・演歌-証言は真実か?
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-48.html

 ・・・弁護人は下記のような指摘をしているが、大変現実的な意見だと思われる。

「Yによれば、被告人風間が浴室内で着替えたのであろうとのことであるが、Eの遺体が搬入されて極めて狭くなっている浴室内で、これからEの遺体を解体しようとするに先立ち、そのような衣類に着替える必要性は全くないと考えられる。/また、水商売の女が履くようなラメ入りのサンダルという点については、(略)狭い浴室内で、遺体を解体するにあたり、ゴム長靴等ならまだしも、不安定で転倒の危険さえあると考えられる水商売の女が履くようなサンダルを履く必要性はなく、また極めて不合理な行動ということができる。/さらに、Yの供述によれば、被告人風間は、スパッツを着用したままでY方を後にしたということであるが、このような行動は、解体の際に血液等が付着している可能性があることなどを考えると不自然である。/また、死体の解体時に、スパッツやサンダルを着用等していたということであれば、当然被告人風間の日常生活においても、スパッツ姿や水商売の女が履くようなサンダルを履いていることが目撃されなければならないと考えるが、被告人風間のそのような姿を目撃した旨の証拠は、一切存在しない。」(『一審弁論要旨』p475~476)

*****

 見込み、予断を持った人間は突飛な具体性を付与されてもそれを迫真性と誤って評価してしまうことについては、以下が明解である――【与えられたディテールと、頭の中で描く何かが合致すると、シナリオのディテールが多いほどシナリオはリアルに思え、その結果、われわれはそれがより蓋然的である[つまり、ありそうである]と考えてしまう。しかしその一方で、ある推測に不確かなディテールを付加することは、どんな場合も、その推測の蓋然性を下げてしまう。
 確率の論理と、不確かな事象に対する人間の評価とのこうした矛盾に、カーネマンとトヴァスキーは興味を抱いた。なぜなら、それが実生活において不当な評価、誤った評価をもたらす可能性があるからだ。(以上引用、レナード・ムロディナウ 『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』 田中 三彦/翻訳、 ダイヤモンド社 、2009/9/17)】。

 「サイコロを6回振れば“必ず”1の目が出る」という話に騙される人は多いが、100回振っても1の目が絶対出ない確率が数値としてはある以上、“必ず”はいつの場合も起こらない。ただし人間に思い込みや予見があると、あり得ないことも起きてしまう。

 今回は誤判を生む構造に視点を大幅に変えて迫ってみたが、もちろん私には「司法取引は冤罪を生みやすい」という常識がまず備わっている。よって「共犯者の証言は信頼できないという前提」からまず思考を開始している。検事・判事がなぜそう考えないのかが、今もって不思議でしょうがない。



▼映画「冷たい熱帯魚」と「埼玉愛犬家連続殺人事件」 (下)
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-126.html

▼派手なスパッツ・ラメ入りのサンダル・演歌-証言は真実か?
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-48.html

※追記2013/11/27、8:22
「見込み、予見を持った人間」→「見込み、予断を持った人間」に変えた(笑)。

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