2010年 天皇制を延命させるもの~使い古された手口としての「わが内なる天皇制」

 3年半ぐらい前に『週刊金曜日』の編集長(北村肇)の記事に反応して書いた記事。書庫「週刊金曜日」の記事だが、ここへも載せておく。

▼天皇制を延命させるもの~使い古された手口としての「わが内なる天皇制」
2010/5/4(火) 午前 10:52週刊金曜日

 天皇に関するほとんどすべてが妄想で語られている時に、「暮らしの中に潜むアキヒトを探す」などと言い出すヤツは、正真正銘の妄想家である。私は算数が得意だから間違いないが、天皇誕生から1300年そこそこだし、カルト天皇教誕生に限れば、130年そこそこである。数字を覚えやすいように130年にしたが、その数字が多少増えて150年になっても本質には関係ない。

 だいたい普天間基地問題で属国のメディアがまず言わないものに「天皇メッセージ」があるが、それを含めメディアが米軍基地の存在にヒロヒトが大きく関わったことを報ずれば、国民は天皇をどう思うのだろうか?そして、そんな中でも、「暮らしの中に潜むアキヒトを探す」国民がもしいたら、私に教えて欲しい。

 本質的なことに触れようとしない歴史と算数の苦手な妄想家が、もし暮らしの中の天皇制とかわが内なる天皇制など言い出したら、「冗談は桜井よしこさん」とでも言ってやればいいだけのこと。“本当に現人神だと妄想したイカレタ人間が利己的な目的だけのために国土を売った”ことに国民のすべてが気づけば、天皇制などあっという間に終わる。そうした後に、暮らしの中の天皇制とかわが内なる天皇制が気がかりな妄想家がもしいたなら、その皆さま方が身の回りのお掃除を始めたらよろしいのです。

 一見社会の不条理の全体に目配りがきいているようにも見える論法ですからだまされやすいのですが、本質的なことに触れさせないために――本質を知っていたとしてですが――問題を不自然に拡散させて、結局は本質を気づかせないという手口は、天皇制という妄想の塊をかえって延命させます。「枯れ木も山の賑わい」といいますが、この論法があっていいものかは微妙なのです。


▼「暮らしにひそむ天皇制」を見て見ぬふりの「反天皇制運動」ではだめだ
http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/

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天皇制について語るとき、「直ちに廃止すべき」「昭和天皇の戦争責任を許さない」と主張していれば文句を言われることはない。だが、そこにとどまる限り廃止への道は遠い。2000年の重みをもっと深刻に考えるべきだ。・・・

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 「2000年」とか書いているから多分算数が苦手なのだろう。地球の歴史から見れば1300も2000もそう違がわないか?

▼「暮らしにひそむ天皇制」を見て見ぬふりの「反天皇制運動」ではだめだ
2010 年 4 月 30 日 9:00 AM | カテゴリー: 一筆不乱 | by 北村 肇
http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/articles/2010/04

 たまたま「ウィキペディア」で『週刊金曜日』の項をみていたら、私が「天皇制を容認した」ことに批判があると書かれていた。おそらく、チャンネル桜の番組で、「なぜこれだけ長く天皇制が続いているのか、そのことを考えなくてはならない」と発言したことを指しているのだろう。そもそも、「右翼的」とされる同局に出ること自体に、「仲間」の陣営から批判を受けてきた。書き込んだ人も同様の立場と思う。「菊タブー」は左翼・革新側にもあることを改めて感じる。

 天皇制について語るとき、「直ちに廃止すべき」「昭和天皇の戦争責任を許さない」と主張していれば文句を言われることはない。だが、そこにとどまる限り廃止への道は遠い。2000年の重みをもっと深刻に考えるべきだ。

 もし「まったく意味のない制度」と市民が考えていたなら、とうに消えているはずである。政治利用された時代も、天皇制の歴史の中でそう長くはない。むしろ、明治時代以降の天皇制が異質なのだ。天皇は「日本人」の精神に深く染み込んでしまっている――この事実を冷静に見据え、解釈しなければ何も始まらない。
 
「居間で上座に座るのはお父さん」という家庭があれば、そこにはすでに天皇制が浸潤している。混合名簿を使っていない学校は天皇制を包含している。「委員長の言葉は絶対」という労働組合は天皇制そのもの。「慈父賢母」の根底にあるのは天皇制。そういうことなのだ。そして、多くの市民がそれらを受け入れている現実――。

 宗教的、文化的な面での検証も深めなくてはならない。天皇家は「巫女」の役割を負いつづけているのか、「日本固有の文化」の伝承者として容認されてきたのか。これらに解答を得たうえで、「日本人」が描いている「天皇像」を分析する必要がある。

 このような実証的研究はさまざまに行なわれてきた。だが、反天皇制の運動は、どちらかというと「昭和天皇の戦争責任」にせばめられてきた感がある。だから、昭和が終わった時点で、運動の高揚感が薄れたかのような印象が社会を覆った。一方で、直接、戦争責任を負わない立場にいる「平成の天皇」のもと、ますます天皇制はじんわりと社会に染み込んでいった。
 
 政治性を帯びた天皇制に焦点をあわせるばかりで、暮らしにひそむそれを見て見ぬふりの「反天皇制運動」は、空念仏に終わってしまう可能性がある。(北村肇)
▼「親米の民族派」という大いなる矛盾
2009 年 5 月 1 日 9:00 AM | カテゴリー: 一筆不乱 | by 北村 肇 |
http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/articles/2009/05

 あの瞬間、「天皇は神ではなくなった」と実感した。むろん、私は皇室制度支持派ではないが、人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上、「神」を信じる人を全否定することはできない。「天皇=神」論者についても同様だ。だが、輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない。「神」の体にメスを入れ、さらには複数の人間の血液を注ぐことなどありえないからだ。

 それ以降、昭和天皇の「政治責任」がより強く問われたのは当然だろう。人間が「神」を裁くことはできなくても、人間である「大元帥」を裁くことは可能だからだ。一方で、平成の天皇が自ら象徴天皇制を強調するのも必然の流れである。憲法は、「人間宣言」をした天皇を象徴としている。そして、多くの市民・国民がそれを支持している。天皇制維持のためにも、天皇は「神」であってはならないのだ。

 実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。事実、平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない。結婚50周年を記念しての「お言葉」にも、「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージが色濃く滲み出ていた。

 しかし、ここに「米国」という要素を持ち込むと、天皇制は別の矛盾にさらされる。本誌今週号で特集したように、政治家・昭和天皇が事実上、日本の米国属国化を認めたことは、最近の研究から明らかである。そして、米国の支配下におかれることで、当然のことながら「日本古来の伝統と文化」は大きく揺らいだ。

 評価は別にして、「天皇を戴いた日本は四民平等である」というのが皇室制の柱の一つだろう。どう考えても、米国のような優勝劣敗思想の国とは相容れない。むろん、新自由主義の導入など、到底、許されるものではないはずだ。「情けは人のためならず」が、本来の意味とは真逆に解釈される社会、それがアメリカナイズされた今の日本である。

 昭和天皇が問われる政治責任は、「戦争」だけではない。皮肉な表現を用いれば、「皇室制度のすっぽり抜けたところに米国という権力・権威を置いた」ことにもあるのだ。新憲法成立により象徴天皇制は残ったが、爾来、この国は、まったく風俗、慣習の異なる国・米国に隷属することとなった。「親米の民族派」がなぜ存在するのか、私には大いなる謎である。(北村肇)

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