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「この国は危ない 何度でも同じあやまちを繰り返すだろう」という歌う中島みゆきが勲章を貰う国


 歴史修正主義者の天皇から勲章など貰っていると、何度でも同じあやまちを繰り返すだろう・・・、と少しは考えてから、返事をするのが知性なのだが・・・


■中島みゆき

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D


2009年11月3日、紫綬褒章を受章。中島は受章に際して、

思いがけずうれしいことの表現に『棚からボタ餅』と申しますが、今の私の気持ちは『棚から本マグロ』くらいの驚きでございます。ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました。













■中島みゆき『4.2.3.』



みゆき 423




「ノーベル賞は日本人ではありませんでした」報道で露呈した日本の“精神的鎖国” 文化も科学もスポーツも「日本スゴイ」に回収

「ノーベル賞は日本人ではありませんでした」報道で露呈した日本の精神的鎖国 文化も科学もスポーツも「日本スゴイ」に回収の画像1
物議をかもしている共同通信のノーベル文学賞報道


 吉野彰氏のノーベル化学賞受賞に国内メディアは大はしゃぎしているが、ノーベル賞をめぐりなんともお粗末な騒動があった。

 10日、ノーベル文学賞の受賞者が発表され、2018年受賞者にポーランドのオルガ・トカルチュク、2019年受賞者にオーストリアのペーター・ハントケが選ばれた。昨年は選考委員のスキャンダルで発表が見送られ、今回は2年分の受賞者発表となった。

 トカルチュクは邦訳作品こそ少ないが、2018年には『逃亡派』(邦訳:小椋彩/白水社)で英国のブッカー賞を受賞するなど国際的に評価の高い小説家。ペーター・ハントケは、ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』の脚本でも知られる作家だ。

 前回2017年の受賞者が村上春樹とルーツや作風の近いカズオ・イシグロだったこともあり例年ほどではなかったが、今年も国内のマスコミは「村上春樹の受賞なるか」とから騒ぎ。やっぱり受賞ならず「残念でした」という毎度の“秋の風物詩”を繰り返していた。

 だが、今回のノーベル文学賞をめぐって、SNSで最も話題になっているのは、共同通信の報道だろう。共同通信が10日20時3分、〈ノーベル文学賞は外国人に〉なるタイトルの速報記事を配信したことが波紋を広げているのだ。しかも、その短い記事本文はこうである。

〈スウェーデン・アカデミーが10日発表した2018年、19年のノーベル文学賞受賞者は、いずれも日本人ではなかった。〉

 この共同の速報記事に対し、Twitterではあきれ返る声が次々とあがった。

〈本気なのか。この見出しと記事内容〉
〈日本人ではなかったってお前…〉
〈この見出し、すげえな。日本人(外国籍含む)か外国人かの尺度しか持ってないのか。〉
日本スゴイ式報道が行き着いた雑すぎ見出し〉
〈どういう感覚でこのタイトルなのか。ちょっと絶句してしまった〉
〈過去最高に何も伝えてないニュース流れてきて笑っちゃった〉
〈これが速報される国…〉
〈日本スゴイの材料にならないと分かるやいなや興味なくすの露骨過ぎでしょ〉

 無理もないだろう。たしかに、共同の見出しと本文は、文字通り“受賞者は日本人か?”のみに焦点をあてたもの。まさに「日本スゴイ言説に有用かどうかだけが報道の価値基準なのか」と思われても仕方があるまい。

 念のため付記しておくと、共同通信は前述の〈ノーベル文学賞は外国人に〉なる速報記事から9分後、〈ポーランドの女性作家らにノーベル文学賞〉と題した記事を配信し、トカルチュクとハントケの受賞を伝えた。それでも、いくら速報性が重要とはいえ〈ノーベル文学賞は外国人に〉なる報じ方はあんまりだろう。端的に恥ずかしいと言わざるをえないし、国際感覚の欠如と捉えられて当然だ。

 実際、当の「外国人」の報道関係者からも失笑されている。ロイター通信日本支局長のウィリアム・マラード氏は10日、自身のTwitterで〈共同通信の年間最優秀見出し〉(Kyodo headline of the year: #NOBEL PRIZE FOR LITERATURE GOES TO FOREIGNER)と投稿。このマラード氏の皮肉に、米国の有力政治系ウェブメディア「Politico」のベン・ルフェーヴル記者がこんなリプライを送っている。

〈日本にいる外国人の何人が「受賞したの私かな?」って思ってメールの受信ボックスをチェックしてるんだろうね〉(How many foreigners in Japan are now checking their inboxes, wondering "Is it me?")

 そして、ポリティコ記者のユーモラスなからかいに対し、ロイター日本支局長が返した言葉がこうだ。

〈私が英語を教えていたとき、ある男の子からこんな質問をされたことを思い出したよ。「“ガイコク”は今何時なの?」ってね〉(Reminds me of when I was teaching English and made a kid ask me a question. He nailed it: “What time is it in Gaikoku?”)

 こうしたやりとりを紹介すると、またぞろネット右翼が血眼になって「反日の外国人記者だ!」などと絡みそうなので、念のため釘を刺しておくと、二人の会話はそうした文脈では全くない。単純に〈ノーベル文学賞は外国人に〉なる報道は「外国人」の報道関係者からも見ても失笑モノ、ということなのである。

個人に与えられるノーベル賞を“日本スゴイ”で消費する国内マスコミの異常

 ただ、別に共同通信の肩を持つ気はないが、今回の件は共同に限った問題ではないだろう。周知の通り、例年、ノーベル賞の受賞者発表が近づくと、日本のテレビや新聞は「日本人受賞者の可能性は?」「これまでの日本人受賞者は?」といった特集をこぞって組む。そして、受賞者が出れば「日本中が喜びの声」などと報じるとともに、総理大臣の「お祝いの言葉」をスポーツの実況中継さながらに伝え、世の中の“万歳ムード”を作りあげる。ようするに、国内マスコミの報道姿勢はもっぱら「日本人」にだけ注目しているのだ。

 しかし、あらためて考えてもみれば、個人の功績を称える経済学賞、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞といったノーベル賞に、本来、「日本人」か「外国人」かなんて、いったいなんの意味があるのだろう。例外的に文学賞はその性質から「ルーツ」の部分にスポットが当たるかもしれないが、その分を差し引いて考えても、日本のマスコミが「外国人受賞者」作品の普遍的な文学性、世界文学における立ち位置などを深く掘りし、視聴者たちが喧々囂々の文学論議をSNSで始める、なんて様は滅多にお目にかかれない。ようは、この国ではノーベル賞ですらも、もっぱら「日本スゴイ」になるかどうかでのみ、消費されているのである。

 こうした「日本スゴイ」の背景にあるのは、あらゆる物事に対して「国家への貢献」を求め、意にそぐわないものを「反日」として排斥する安倍政権下の風潮だろう。「日本人」と「外国人」で二分し、前者にのみ賞賛を注ぎ、後者は「日本と縁があるか」「日本のことが好きか」と日本との関係を血眼になって探しその1点に焦点を当てそれがなければスルー。そんなふうにして、いまやすべてが“内向き”になっている。

 文化や芸術の領域でもそうだ。出版界では翻訳文学の点数がどんどん減少し、洋画離れも洋楽離れも叫ばれて久しい。こういう“ガラパゴス現象”を目の当たりにすると、外からの新しい知識を欲し、国際感覚に鋭敏であることをよしとする風潮は、もはや過去のものになってしまったように感じる(その意味で、若い世代K-POPや韓国文学などに親しんでいることは数少ない希望のひとつである)。

 一方で、書店には、ひたすら日本を賞賛する「日本スゴイ本」が平積みにされ、中国・韓国を貶すヘイトまがいのタイトルが並んでいる。テレビをつければ「外国人」に「日本美術」や「日本製品」を賞賛させる番組が目立つが、慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」が脅迫やテロ予告の標的となって美術展が中止に追い込まれた。あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」中止問題をめぐっては、海外で美術関係者が連名で抗議したり署名運動が行われたが、日本の政治家ネトウヨはハナから無視しているし、一般の人々のほとんども国際的な目線を気にかけない。また、世界的な「#MeToo」ムーブメントが日本ではいまだ局所的であるように、国際的なソーシャルイシューに対する姿勢も完全に遅れている。

安倍政権が牽引する偏狭な愛国主義の空気のなか、“精神的鎖国”が進む日本

 英国在住のコラムニストであるブレイディみかこ氏は、最近、ウェブサイト「Wezzy」のインタビューで、日本社会と国際社会との“ズレ”をこう語っていた。

「昔、イギリスの新聞社の駐在員事務所でアシスタントをしていたとき、同僚に日本好きでしょっちゅう日本に旅行しているような男性がいたんです。彼とはいまもつきあいがあって、数年前に話したとき、『日本に行ったら空港に中国や韓国のことを悪く書いたタイトルの本が置いてあった』と言ってたのであまりにシュールで不謹慎ながらつい笑ってしまったことがあります。『日本はまた鎖国すんのか!?』って」(10月8日「日本が直面する排外主義、格差社会。絶望せず未来へ進むためのヒント/ブレイディみかこさんインタビュー」)

 インタビュアーが「音楽・映画・文学などの海外の文化がどんどん受容されなくなっている傾向も感じます」と言うと、ブレイディみかこ氏も「それは私もすごい感じます」と同調する。

「海外から入ってくるものを聴いたり、見たり、読んだりして影響を受けることって大事じゃないですか。それは、海外にかぶれろって意味ではなく。『ここじゃない世界がある』っていうことは、すごくいろんな人を勇気づける。特に、いまがつらい人。生きていると、ここじゃない世界がどこかにあると思うからやっていける瞬間ってありますよね」
「そのためにも外からの情報って大事だと思うんです。でも、外からの情報がなくなったり、興味がない人が増えたりすると、そもそも翻訳がなかなか出なくなったりする。1980年代とかだと海外の本もすぐ翻訳されましたよね。でも、いまは違う。多分、『貧困化する』ってそういうことなんですよ。いまの日本を見ていると、国が衰退していっているのを見ている気がします」(同上)

 安倍政権が牽引する偏狭な愛国主義の空気のなかで“精神的鎖国”が進行し、メディアは「日本スゴイ!バンザイ!」と自己暗示をかけるばかりで、外でなにが起きているかを伝えず、受け手も見ようとしなくなった。その結果、差別や排外主義が勢いを増しただけでなく、「文化後進国」であることを恥じる感覚が麻痺し、科学技術やハイテク分野で遅れをとっている事実すら直視しなくなってしまった。

 今回の〈ノーベル文学賞は外国人に〉という共同通信の速報は、まさに自らの慰撫にふけって、世界から完全に取り残されていることの象徴的出来事だったように思えてならない。せめてもの救いは、こういった見出しや報じ方に少なからぬ人々が拒絶反応を見せたことだが、かたやネトウヨたちはこの時期になると、何かと「日本人」と「韓国人」「中国人」の受賞者数を比べて悦に入る。別に自分が受賞したわけでもないのに、だ。

 メディアは大衆の欲望を反映させる。だからこそ、その欲望がいかに爛れているか、自覚を促さねばならない。ノーベル賞ですら「日本スゴイ」の文脈でのみ消費することの、いったい何が「スゴイ」のだろう。側から見れば「キモイ」だけだ。

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コメント

「黒い炎」?

炎色反応について知っていると、「黒い炎」とは何と陳腐な表現だと思われるのだが、中島みゆきが「黒」にマイナスイメージ(疑惑、疑念、恐怖・・・)を含意させているだろうから、余計に質が悪い。
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