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天皇陵見下ろす地から移転した被差別部落

天皇陵見下ろす地から移転した被差別部落

 令和への代替わりに、歴史から考えてほしいこと

©株式会社全国新聞ネット

https://this.kiji.is/520866286343881825

 インターネット上には、部落差別をあおる書き込みが後を絶たない。5月には、今回の参院選で日本維新の会から比例代表候補として出馬する予定だったフリーアナウンサー長谷川豊氏が、講演会で部落差別発言をしていたことが明るみに出た。そんな中、お祝いムードに包まれた平成から令和への代替わりを機に、部落差別と天皇制との関係を歴史の視点から考えてほしいと訴えている人がいる。

 辻本正教さん(70)。曽祖父と祖父は、明治時代の天皇陵拡張工事に伴い、生まれ育った場所から別の造成地に村ごと移転した。その村は奈良県橿原市の畝傍山中腹の被差別部落「洞村」(ほらむら、通称ほうらむら)だった。江戸時代末期に初代神武天皇のものとされる墓が山の麓に定められ、見下ろすのは「不敬」だとの声が上がったあとのできごとだった。

洞村の移転先を歩く辻本正教さん=4月、奈良県橿原市

 ▽住民千人が集団移転

 辻本さんは部落解放運動をしながら史料を集め、「洞村の強制移転」という本に移転の経緯と背景をまとめた。

 辻本さんによると、神武陵近隣の住民が1913年、神聖な墓に道を接しているとして、洞村を非難する「建白書」を宮内大臣に提出した。前年に即位した大正天皇が神武陵を訪れるとの計画が地元に知れ渡り、近隣の人々の差別意識を刺激したという。建白書と同じ13年に刊行された史料「皇陵史稿」にも「(洞村が)霊山を侵食する」との記述があった。

 18~20年、洞村の住民約千人(約200戸)は、神武陵に隣り合う新たな造成地に移り、宮内省が「御下賜金(ごかしきん)」として、当時としては高額な31万5千円の移転費用を支出した。全国の被差別部落の環境改善に充てられた予算が5万円の時代に、破格の予算と言えるだろう。

明治時代を再現した模型地図を見る辻本さん。手前左に神武陵、右の山に洞村の住宅地が見える=4月、奈良県橿原市

 建白書や皇陵史稿からは、根強い差別意識による圧力がうかがえる。辻本さんは移転が「天皇制と部落差別が濃厚に影響した一大事業だった」と分析する。その上で、洞村の住民自身も「天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」と考えたとみている。さらに、移転の理由には洞村の劣悪な住宅環境の改善もあった。辻本さんは「不敬問題を利用して村をきれいにし、差別や偏見をなくしたい考えもあっただろう」と推測する。

 結局、当時の住民ら自身も身分制から逃れられなかったようだ。「洞村の住民をはじめ、当時の被差別部落の住民は、明治天皇が天皇の下での平等を約束し被差別民を解放する『聖勅』を出したと感謝していた。被差別部落も天皇の権威にからめとられていた」と指摘する。

神武天皇陵

 ▽神武天皇陵の場所が特定された理由

 そもそも、在位期間が紀元前7世紀の縄文時代に当たり、伝説上の存在と言われる神武天皇の墓が、なぜ特定できるのか。

今尾文昭さん

 「天皇陵古墳を歩く」の著書があり、奈良県立橿原考古学研究所の調査課長を務めた今尾文昭さん(63)が解説する。「神武から8代は神と人とをつなぐ存在で、戦前も含めて、歴史学者の間では実在は疑われている。7世紀末、橿原に藤原京が造られた頃、初代とした神武天皇の陵墓が必要になった。『古事記』『日本書紀』に記された天皇の系譜との整合性を図るために、畝傍山に近い誰かの古墳を充てた」

 当時定められた神武陵の場所は、長い歴史の中でどこか分からなくなった。その後、幕末の1863年、日本書紀の記述などを手掛かりに、畝傍山近くの三つの候補地から改めて決められた。最後は当時の孝明天皇による決裁だった。

 「幕末から明治にかけ、古墳が次々と天皇陵に定められた。西洋列強に並ぶため、日本は非常に古い歴史を持ち、神の子孫が治める国だと示すためだった。天皇の権威を高めようとした訳だ」と今尾さん。「7世紀の律令(りつりょう)時代から今も、古墳はそれぞれの時代で政治利用されてきた」と強調する。

 辻本さんは、お祝いムードに包まれた天皇の代替わりに複雑な思いを抱き、こう語った。「『貴あれば賤あり』という言葉がある。『貴』の人々が尊ばれる裏で、解放されたはずの『賤』の人々がいまだにさげすまれている。今の時代にまだ身分制が残っているということではないか。そこに違和感を抱いてほしい」(共同通信=角南圭祐)

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天皇陛下、皇居で安倍首相らと昼食会

安倍晋三首相(左から2人目)や閣僚らを招いた昼食会に臨まれる天皇陛下=9日午後、皇居・宮殿「連翠」(代表撮影)

安倍晋三首相(左から2人目)や閣僚らを招いた昼食会に臨まれる天皇陛下=9日午後、皇居・宮殿「連翠」(代表撮影)

 

天皇陛下、皇居で安倍首相らと昼食会

2020年01月09日14時04分 



天皇陛下は9日、首相や閣僚、副大臣らを皇居・宮殿に招き、昼食を共にされた。本来は年末の恒例行事だが、即位関連行事などのため新年にずれ込んだ。

【皇室特集】国民とともに~最新ニュース、写真・動画も~

 皇嗣の秋篠宮さまも同席。安倍首相が代表としてあいさつすると、陛下はねぎらいの言葉を掛けた上で、「即位礼に関する諸儀式における皆さんのご尽力に対し、改めて感謝いたします」と述べた。

【社説】年のはじめに考える 天皇制と男女平等は

年のはじめに考える 天皇制と男女平等は

 「女性天皇は認めるべきだ」

 「確かに推古天皇から八人で十代の例があるが、男系が皇位に就くまでの暫定的な存在だった」

 「政治的野心を持った者が女性天皇の婿(むこ)になったら、困ることになるではないか」

 こんな議論があったのは何と一八八二(明治十五)年。当時の有力紙・東京横浜毎日新聞に載りました。九回連載のテーマは、ずばり「女帝を立(たつ)るの可否」。

 一流の論客たちが侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を繰り広げました。中には「立憲主義国では平凡な君主で構わないから女性でも務まろう」などと、現在なら女性蔑視と眉をひそめる意見も載っています。

西欧は女王の歴史が

 憲法学者・故奥平康弘氏の「『萬世一系』の研究」(岩波書店)に記された興味深いエピソードです。こんな議論が起きたのも、明治国家が憲法を定めつつある時期で、模範にする西欧では女帝が存在したからです。

 英国ではビクトリア女王が在位中。歴史的にも十六世紀に有名なエリザベス一世がいたし、十八世紀にはオーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカテリーナ二世ら女帝が君臨しました。

 でも、一八八九年に公布された大日本帝国憲法の第二条には「皇位ハ(中略)皇男子孫之ヲ継承ス」と定められました。男系・男子主義です。どんな経緯だったのでしょうか。

 早くは元老院の「日本国憲按(あん)」という文書の一次案に、女性天皇を容認する記述があります。皇位継承の順位として「同族ニ於(おい)テハ男ハ女ニ先(さきだ)チ」などと。でも、二次案では女帝容認案は消えてしまいました。明治憲法制定にあたり、伊藤博文の右腕になった井上毅が西欧を軽率に模倣する愚を説いたのです。

 論の中核が、もし女性天皇が子どもを産めば、その子は父親の姓を名乗ることになる-という当時の家父長制の論理でした。男系が崩れ、女系天皇になるわけです。

「法の下の平等」では

 ただ女帝を封じれば困った事態も予想されます。男系・男子だけだと天皇を継ぐ者がいなくなりはしないか? でも井上には「正妻の子でない天皇」が念頭にあったようです。当時は慣習として天皇にも側室がいたのです。

 実は明治天皇も正妻の子ではありません。遡(さかのぼ)れば江戸時代の桜町天皇から、桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治と側室の子が続きます。大正天皇も、です。これらの事柄も奥平氏の前掲書に記されています。

 こうして引き継がれてきた天皇制は、昭和の敗戦で新局面を迎えます。新憲法は第一四条の「法の下の平等」で性別により差別されないことを定めたからです。

 男女平等ですから、日本国憲法の第二条は「皇位は、世襲」とのみ記し、明治憲法にあった「皇男子孫」の文字が消えました。しかし、一般の法となった新皇室典範は男系・男子主義のまま残ってしまいました。

 もっとも典範改正にあたり、一九四六年に当時の宮内省は「皇統を男系に限ることは憲法違反となるか」という文書を臨時法制調査会に出しています。宮内省の立場としては、むろん「否」なのですが、当時の空気には意外なほど女帝肯定論がありました。

 同調査会でも、東京帝大教授の宮沢俊義氏や杉村章三郎氏らは肯定論の立場でした。帝国議会でも「男女平等」の原則から女性天皇論が説かれたりしています。ただ、現実には多数派は男系・男子主義で、新皇室典範ができたのですが…。

 さて、大嘗(だいじょう)祭を終えた今、皇位継承の在り方は政府の宿題になっています。女性・女系天皇、また女性宮家の創設のテーマです。皇位継承者は秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまに限られてしまったためです。もはや側室制度はありえません。

 だから男系・男子主義者は旧皇族の復活などを主張します。でも、象徴天皇制は国民の意識変化も考える必要があるでしょう。共同通信の世論調査では女性天皇に賛成が82%、女系天皇の賛成が70%。国民の多くは「容認」です。

 昭和天皇の弟である故・三笠宮崇仁さまはかつて皇族の結婚について嘆きを記しています。

人権と民主主義でも

 <種馬か種牛を交配する様に本人同士の情愛には全く無関心で(中略)人を無理に押しつけたものである。之(これ)が為(ため)どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し(中略)たことであらうか>

 天皇家は人権が及びにくい「身分制の飛び地」と学問的にいわれています。ですが、婚姻の自由はあってしかるべきです。

 「個人の尊重」の点からも。むろん平等の点からも…。女性・女系天皇論を扱ううえでは、今や人権と民主主義という憲法の根幹にある思想が必要と考えます。

伊勢神宮で皇居「遙拝」

昭和天皇祭遙拝しょうわてんのうさいようはい

祭典
令和元年12月10日

1月7日(火) 午前8時

皇居内の皇霊殿において、昭和天皇祭が執り行わせられるにあわせ、神宮では大宮司以下が遙拝式を行います。

https://www.isejingu.or.jp/topics/2xo2ofzt.html




2013年1月6日(日)

改憲のための“お伊勢参り”?

伊勢神宮で皇居「遙拝」

https://www.isejingu.or.jp/topics/2xo2ofzt.html


 安倍晋三首相が参拝した伊勢神宮(三重県伊勢市)で7日、東京都千代田区の皇居の方向に向かってお辞儀をする昭和天皇祭遙拝(ようはい)が行われます。

 神宮司庁広報室によると、昭和天皇祭遙拝は1989年1月7日に昭和天皇が亡くなってから始めたといいます。内宮(ないくう)第一鳥居内のしめ縄が張られた祓所(はらえど)で大宮司以下、神宮の主要メンバーが参加します。

 戦前の日本軍国主義の宮城(きゅうじょう)遙拝を思わせる儀式です。伊勢神宮は戦前、国家神道(神道の国教化)の頂点とされたところです。昭和天皇のもとで朝鮮半島、中国やアジア・太平洋で侵略戦争を遂行した日本政府は、国内外の人々に毎朝、宮城(皇居)の方向に向かってお辞儀する儀式を強制しました。痛苦の体験を強いられた人々の記憶は消えません。

 現行憲法は、侵略戦争の惨禍をふまえて“日本は天照大神以来の万世一系の天皇の統治する神国”というイデオロギーを否定し、「天皇は…国政に関する権能を有しない」と定めました。その憲法のもとで、天皇を神格化する伊勢神宮に安倍首相や下村博文文部科学相らが参拝。改憲のための“お伊勢参り”と疑われても仕方がないのではないでしょうか。(繁)

英王子夫妻が環境賞創設 気候変動、解決策提示へ

■奴隷貿易と英国の女王 ~エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ500年』より~

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-9320.html


■英王子夫妻が環境賞創設 気候変動、解決策提示へ

https://www.shinmai.co.jp/news/world/article.php?date=20200102&id=2020010201000488

  •  英国のウィリアム王子、キャサリン妃(いずれもゲッティ=共同) 英国のウィリアム王子、キャサリン妃(いずれもゲッティ=共同)
 【ロンドン共同】英王室は12月31日、環境問題解決に向けた明確なビジョンを持つ個人や団体に贈る環境賞をウィリアム王子夫妻が創設すると発表した。2021~30年を「地球修復に向けた行動を取る10年」と位置付け、毎年5人に授与し、30年までに気候変動や大気汚染など「世界最大の問題」への50の解決策を示したいとしている。

 賞名は「アースショット賞」。英メディアによると、達成は困難だが成功すれば大きな成果となる構想を意味する「ムーンショット」にちなんで名付けられた。詳しい内容は明らかになっていないが20年中に正式に創設予定で、夫妻の王立財団が運営するとみられる。

(1月2日8時20分)

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