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内実は朝鮮人には日本人の医者から公然と売られているのだ。東京の星製薬の阿片が売られているし、モルヒネも売られている。


■瀬戸内寂聴『金子文子 余白の春』岩波現代文庫、2019年、第1刷

頁307──

 そんな朴烈の話を聞くと、文子は涙を流して感激した。朴烈は無口で自分から喋りはじめることはほとんどなかったが、熱情家の文子が夢中になって、朝鮮での日本人の横暴について話しはじめると、つい口がほぐれてくる。
「何が癪に障るっていったって、寺内ビリケン総督の阿片政策、梅毒政策くらい口惜しいものはないさ」
「それはどういうことなの」
「日本は外国に対する体面上、表向きは阿片の売買は禁止しているが、内実は朝鮮人には日本人の医者から公然と売られているのだ。東京の星製薬の阿片が売られているし、モルヒネも売られている。又一方では淫売を奨励して花柳病を日本から輸入して決して検梅
しないんだから」
「それじゃ朝鮮民族を絶滅させようというんですか」
「まあそういうことだな」
「何というひどいことを」
「しかし、どうせこの世の中は弱肉強食の世の中だよ。ロシアだって革命が終ってみれば、結局少数の権力者の思うままになって民衆はただ彼等にひきずり廻されている。全智全能の神という奴が、人間の弱肉強食の世界を見殺しにして一向に救うことも罰することも出来ない。何が全智全能なものか。最も無智無能なのが神という名の奴かもしれない。俺はもう何も信じていないのだ。<以下略>・・・


■「日の丸」はアヘンの商標?

2008/4/7(月) 午後 6:30

https://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/5997144.html

 今回は宗教の話ではなく、「アヘン大国だったこの国」の話です。これについては、「二反長半」と「星新一」に関連して正月の朝日新聞に載りました。

★1999/1/4/、朝日新聞「百年のこと」<家族写真>3より

(二反長音蔵は・・・)
  大阪府福井村(現茨木市)に生まれた。上京して、薬用アヘンの国産化を要人に働きかけた。自宅の畑はケシ試験園とされ、収穫はすべて政府が買い取った。山林を切り売りしてまでケシの普及に打ち込んだ。
  
  満州事変後の34年(昭和9年)には旧満州にわたり、ケシの栽培指導をしている。
    
 当時、ジュネーブ国際アヘン会議で活動した宮島幹之助氏が出版した報告が残されている。32年、世界のヘロインの55%、コカインの23%、モルヒネの12.7%を、日本が生産していた。

  日本は中国に大量のアヘンを流し込んだ。巨利を生み、反日運動の機運をそぐ「毒化政策」だった。

  密売人たちは大陸奥地で、「治外法権」を示す日の丸を掲げた。池田純久・元陸軍中将の著書には、「日本国旗に対する陵辱事件が時折起こった。よく調べてみると、中国人は日の丸を国旗とは知らず、アヘンの商標と思っていた」とある。
  
  今世紀前半の一時期、この国は世界一の麻薬大国だった。

  (中略)

  半さんは文献を集めた。毒化政策を裏付ける記述を見つけるたびに胸がうずいた。 ・・・

 遺作は、44年間に及ぶ文筆生活で異色のものとなった。軍部のアヘン政策を告発し、父の役割を「阿片王の名のもとに(軍部の)いっぽうの片棒をかつがされていた」と断罪した。


  音蔵の生アヘンを払い下げられた実業家の星一は、モルヒネを製造、星製薬は急成長する。

  「アヘン王」の音蔵に対して、「製薬王」と呼ばれた。
  
 星の息子も、作家になった。「星新一」と名乗った。

  父の伝記『人民は弱し官吏は強し』は、作品群中、やはり異色とされる。

  官僚の腐敗を批判し、アヘン密輸の嫌疑をかけられた父(後に無罪)を弁護した。この著作に対し半さんは、星製薬と台湾総督府との癒着に触れていないと批判した。

  ベストセラー作家の手になる伝記に、父の盟友だったはずの「アヘン王」は登場しない。
 (引用終わり)


■石川逸子『日本軍「慰安婦」にされた少女たち』岩波ジュニア新書、2013年

頁130――

 もし日本の少女たちを1枚の紙片で連行したならば、かならずや兵士たちははげしく動揺し、「聖戦」に疑問をいだいたにちがいない。長年にわたってつちかわれたアジア民族への蔑視観と、公娼制度による娼妓たちへの差別観が、「慰安所」での強かん、輪かんを可能にしているのであったから。
 そしてまた、大日本帝国にとって、大人の男は死に追いやっても、その「種」である大和民族の子どもはどんどん「再生産」されねばならなかったが、朝鮮民族は「民族抹殺」してもかまわず、むしろ「民族抹殺」がねらわれていたと思われる。
 「朝鮮の若い女をみんなかきあつめて慰安婦にし、朝鮮民族の種を絶滅させるのだ」と公言した日本の軍人もあったという。
 金一勉(キム・イルミョン)さんは、日本は朝鮮にアヘンを密輸入し、公娼制度、トバクももちこみ、はやくから朝鮮民族を滅ぼそうとしていたのだ、と指摘している。
 また、尹貞玉(ユン・ジョンオク)さんは日本の女性は「慰安婦」にこそされなかったが、「皇軍である天皇の赤子を生むべき「赤子生産器」にされた」のだと。
 たしかに朝鮮の娘たちがぞくぞく「慰安所」へ送られてレイプされ、子を産めないからだにされているころ、日本では「産めよ、ふやせよ」が国策としてすすめられていた。


頁132――

 そして、北朝鮮のもと「慰安婦」金英実(キム・ヨンシル)さんの証言によれば、「慰安所」では朝鮮語を使うと殺す、といわれていた。しきり1つへだてたとなりの部屋には「トキコ」という同胞の少女がいたが、ある日、軍人が「出てこーい」とどなり、みんなが部屋から出ていくと、トキコを軍人がすわらせていて「トキコは朝鮮語を使っていたから殺す」といった。まさか、おどしだろうと思ったが、軍人はその場でトキコの首を切りおとしたという。
 日本軍「慰安婦」は、天皇が「赤子」である「皇軍」将兵におろす「下賜品」であり、民族抹殺が政策的に計画されていた植民地の「消耗品」であって、人間とはみなされていなかったのだ、という尹貞玉さんの指摘を重くうけとめたい。


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瀧容疑者にコカイン譲渡か、48歳通訳の女逮捕

瀧容疑者にコカイン譲渡か、48歳通訳の女逮捕

 コカインを使用したとして麻薬取締法違反容疑で逮捕された俳優のピエール瀧(本名・瀧正則)容疑者(51)にコカインを譲り渡したとして、厚生労働省関東信越厚生局麻薬取締部(麻取)が、通訳業の田坂真樹容疑者(48)(横浜市)を同法違反(譲渡)容疑で逮捕したことが捜査関係者への取材でわかった。2人は20年来の知人で、麻取は、田坂容疑者のコカイン入手ルートを調べている。

本当の麻薬王:CIAの麻薬取引関与小史

マスコミに載らない海外記事


2008年9月12日 (金)

本当の麻薬王:CIAの麻薬取引関与小史

ウィリアム・ブルム

2008年8月30日

revolutionradio.org

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/cia-4fb5.html


1947年から1951年、フランス

アルフレッド・W・マッコイの著書The Politics of Heroin in Southeast Asia、によると、CIAの武器、資金とデマが、マルセイユのコルシカ島人犯罪組織が、労働組合の支配を共産党から奪取することを可能にした。コルシカ島人は、政治的影響力と、波止場の支配権を獲得し、マフィア麻薬密売人との長期的協力関係を固めるのに理想的な状況となり、マルセイユは、西側世界において、戦後のヘロインの中心地となった。コルシカ島人が波止場地区を掌握してから、わずか数カ月後、マルセイユで最初のヘロイン研究所が1951年に開設された。

1950年代初期、東南アジア

中国共産党に対する戦争遂行のためにCIAが組織した中国国民党軍は、世界最大のアヘンとヘロインの供給源、ゴールデン・トライアングル(ビルマ、タイとラオスの一部)のアヘン豪族となった。ClAが主要株主であるエア・アメリカが、麻薬を東南アジア全域に空輸した。(クリストファー・ロビンズ著、エア・アメリカ、Avon Books、1985、第9章を参照)

1950年代から1970年代初期、インドシナ

アメリカ軍が、ラオスやインドシナの他地域に介入していた間、エア・アメリカは、アヘンとヘロインを地域中に空輸した。ベトナムに駐留した多くのGlが麻薬中毒になった。北部ラオスのCIA本部に作られた研究所がヘロイン精製に使われた。十年間のアメリカ軍事介入後、東南アジアは、世界中の違法アヘン70パーセントの供給源、アメリカの成長著しいヘロイン市場への原料主要供給源となった。

1973-80、オーストラリア

シドニーにあるヌガン・ハンド銀行は、事実上CIA銀行だった。同行の幹部には、同社弁護士の一人でもあった元CIA長官ウイリアム・コルビーを含む、アメリカ人将軍、提督やCIAネットワーク関係者がいた。サウジアラビア、ヨーロッパ、東南アジア、南米やアメリカの支店を通じて、ヌガン・ハンド銀行は、麻薬取引、マネーローンダリングや国際的武器取引に資金を提供した。1980年、何人かが謎の死を遂げるさなか、同行は倒産し、$5000万ドルの負債が残った。(ジョナサン・クウィトニー著、The Crimes of Patriots: A True Tale of Dope、Dirty Money and the CIA、W.W. Norton & Co.、1987年刊行、を参照。)

1970年代と1980年代、パナマ

この将軍が麻薬密輸とマネーローンダリングに深く関与していることを、アメリカの麻薬取り締まり当局が1971年という早い時期から知っていながら、パナマ独裁者のマヌエル・ノリエガは、十年間以上、高給をはむCIA情報提供者、協力者だった。ノリエガは、コントラに対する「麻薬と交換用の銃砲」貨物便の便宜をはかり、保護とパイロット、麻薬カルテル幹部の為の安全な隠れ場、目立たない金融機関銀行を提供した。当時のClA長官ウイリアム・ウエブスターや何人かのDEA職員を含むアメリカ官僚は、(メデリン・カルテルのパトロンの競争相手に対してだけだったが)麻薬取引を妨害した努力に対して、ノリエガに称賛の手紙を送った。アメリカ政府は、彼がキューバ人やサンディニスタたちに諜報情報や活動を提供していることを発見すると、ようやくノリエガと敵対し、1989年12月パナマに侵略し、将軍を誘拐した。皮肉なことに、パナマ経由の麻薬取引は、アメリカ侵略後に増大した。(John Dinges, Our Man in Panama, Random House, 1991; National Security Archive Documentation Packet The Contra, Cocaine, and Covert Operations.)

1980年代、中米

サンノゼ・マーキュリー・ニューズの連載記事は、CIA、コントラとコカイン・カルテルという、織り混じった作戦中のより糸の一本にすぎない。ニカラグアの左翼サンディニスタ政府を打倒することに熱中するあまり、レーガン政権の官僚は、麻薬密売人たちが、反共ゲリラのコントラを支援している限り、麻薬取引を大目に見ていた。1989年、テロリズム,麻薬,国際作戦に関する上院小委員会(ケリー委員会)は、以下のように述べて、三年間の捜査の結論とした。

「個別のコントラ、コントラへの供給業者、コントラのために働いたコントラの傭兵パイロット、そして地域全域のコントラ支持者の側が、交戦地帯を経由した麻薬密輸実質的証拠があった …。中米に関与していたアメリカ人官僚は、対ニカラグア戦争推進工作を台無しにするのを恐れるあまり、麻薬問題に対処しそこねた …。いずれの場合も、麻薬取引に関する情報を、その取引の最中なり、その直後にはアメリカ政府のどれかの機関が持っていた…。麻薬による資金はコントラ資金援助問題完璧な解決策だという発想に、アメリカの政策立案幹部は免疫がなかった。」(Drugs, Law Enforcement and Foreign Policy, a Report of the Senate Committee on Foreign Relations, Subcommittee on Terrorism, Narcotics and International Operations, 1989)

コントラの「南部戦線」として機能したコスタリカには(ホンジュラスは北部戦線だった )、麻薬取引に関与するいくつかの異なるClA-コントラ・ネットワークがあった。マーキュリー・ニューズが詳細を報じたメネセス-ブランドン作戦のために働いた連中や、ノリエガの工作に加え、CIA工作員ジョン・ハルという人物がいた。コスタリカとニカラグアの国境沿いにあった彼の農場は、コントラ作戦の主要舞台だった。ハルや他のClAとつながったコントラの支持者やパイロットが、マイアミに本拠を持つコロンビア人の大物麻薬密売人ジョージ・モラレスとくんだ。モラレスは、300万ドルの現金と、飛行機数機をコントラ指導者に渡したことを後に認めた。1989年、コスタリカ政府がハルを麻薬取引で告訴すると、DEAが雇った飛行機が、こっそり違法にこのCIA工作員を、ハイチ経由で、マイアミへと移送した。裁判にかけるため、ハルをコスタリカに送還させようというコスタリカの努力を、アメリカは再三妨害した。コスタリカに本拠をおく別の麻薬組織には、CIAがコントラ用の軍事訓練担当者として雇用したキューバ系アメリカ人の集団がからんでいた。彼らの多くはCIAとの麻薬取引に長らく関与していた。彼らはコントラの飛行機とコスタリカに本拠を持つ船会社を使い、CIAのために資金を洗浄し、コカインをアメリカに運び込んだ。コスタリカだけが唯一のルートではなかった。CIAと深い関係を持っているグアテマラ軍諜報組織が多数の麻薬密売人を匿った。DEAによると、コカイン・ハイウエイ上のもう一つの中間駅だった。

さらに、メデリン・カルテルの在マイアミ経理担当者ラモン・ミリアン・ロドリゲスは、エルサルバドルのイロパンゴ空軍基地を本拠地にしていたベテランCIA工作員フェリックス・ロドリゲスを通して、1000万ドル近くを、ニカラグア・コントラに注ぎ込んだと証言した。コントラは、これらのClAとつながった麻薬ネットワークに、保護とインフラストラクチャー(飛行機、パイロット、滑走路、倉庫、トンネル会社や銀行)とを提供した。少なくとも麻薬取引に関して捜査されていた運輸会社四社は、非致命的な武器をコントラに輸送するアメリカ政府の契約を得ていた。「元」ClA所有で、後にはペンタゴンと契約していた、サザン・エア・トランスポートも、麻薬密売に関与していた。コカインを積んだ飛行機が、フロリダ州、テキサス州、ルイジアナや、「コントラ同業組合」として指定されているいくつかの軍事基地をふくめた他の場所に空輸した。こうした貨物は検査を受けないことになっていた。内情を知らされていない官庁が彼らを逮捕すると、太いコネを使って、訴訟の取り下げ、無罪放免、減刑判決、あるいは、国外追放を実現させていた。

1980年代から1990年代初期、アフガニスタン

ClAが支援したムジャヒディン・ゲリラは、ソ連が支援する政府や、非常に遅れたアフガニスタン社会を改革しようという彼らの計画と戦う一方、麻薬取引に深く関与していた。ClAの主要な相手は、グルブッディーン・ヘクマティヤールで、有力な麻薬王、ヘロイン精製業者の一人だった。CIAはトラックとラバを提供したが、これを使って、武器をアフガニスタンに運び込み、アヘンをアフガニスタン・パキスタン国境沿いの工場に運ぶのに用いられた。生産物は、アメリカ合州国で毎年消費されるヘロインの二分の一、西欧で使われる四分の三を満たした。アメリカ人の役人は、1990年、同盟相手のパキスタン人やアフガニスタン人を怒らせたくないという願望から、麻薬事業の捜査、あるいは取り締まりをやりそこなったことを認めた。1993年、あるDEAの役人は、アフガニスタンを麻薬世界の新コロンビアと呼んだ。

1980年代中頃から199O年代初期、ハイチ

ハイチの軍と政治の有力な人物と協力しながら、CIAは顧客の麻薬取引を見て見ぬ振りをした。1986年、CIAは新しいハイチの組織、国家情報庁(SIN)を創設して、給与支払い名簿に新たな名前を書き加えた。SINはコカイン取引と戦うため創設したのだと言われてはいたが、SIN職員自身が密輸に従事し、取引でハイチ軍や政治指導者の犯罪を幇助した。

ウィリアム・ブルムは、Killing Hope: U.S Military and CIA Interventions Since World War ll の著者。本はCommon Courage Press、P.O. Box 702、Monroe、Maine、04951で購入可能。

記事原文のurl:revolutionradio.org/2008/08/30/the-real-drug-lords/

Killing Hopeの一部は、ご本人のwebにものっている。

帝国への血塗られた道 ウィリアム・ブルムとのインタビュー

益岡賢氏が訳しておられる。Killing Hopeについての長文!

ウィリアム・ブルムの本『アメリカの国家犯罪全書』は翻訳・刊行されており、日本語でよめる。

原書Rogue State 益岡賢訳

岸信介と満州国

▼『証言 日中アヘン戦争』江口圭一(編)/及川勝三/丹羽郁也、岩波ブックレット
頁58──

及川(引用者注:及川勝三。満州国、蒙疆政権、海南島でアヘン政策の最先端を歩む) いやあ、ただ、これだけはいっておきたいんですが、私はアヘン生産に熱中しましたが、不浄なこと、不正なことは一切しませんでした。アヘンは巨利を生みますから、いろいろうまい話はないかといって接近してくる。軍人にもおったですよ。しかし私は一切そういう連中には取りあわなかった。だから満州国で実権をにぎり、戦後政界に君臨したさる大物政治家がアヘンでもって巨額の政治資金を作っていたという話を聞いたときには、本当に腹がたちました。俺たちが第一線でさんざん苦心していたというのに、後方でうまい汁をすって儲けていたんかと、腹がたったですなあ(笑)。

江口 日本のアヘン政策の目的は、第1に巨利を獲得することにありまして、蒙疆政権の場合でも、・・・



▼岸信介とCIAの密接な関係 自民党にも金の流れ?

http://dot.asahi.com/wa/2013051700001.html

 米国の戦後アジア政策は、米国の権益を守ってくれる、その国の「ストロングマン」を探し出すことから始まる。巣鴨プリズンを釈放された岸信介(後に首相)は、「強い男」として米国保守派に見いだされ、CIAの庇護を受け続けていた。

  実態を垣間見ることのできる「聖地」がワシントン郊外にある。米国国立公文書館別館。米軍諜報組織や米中央情報局(CIA)の機密解除書類を手に取って読むことができる。「岸信介」ファイルの閲覧を請求すると、30分ほどでひとつの箱が出てきた。そこには一体何が入っているのか。しかし、その中身は意外に拍子抜けのするものだった。

  書類の束は薄く、CIAが作成した資料はわずか5枚しかなかった。しかも岸の政治的プロフィルの紹介ばかりで、CIAとの深い関連が指摘される人物のファイルとは到底思えないようなものだった。

  しかし、実を言えばこのこと自体が、研究者には意味をもっている。「岸のCIA関係資料はほんの薄いものです。しかし、われわれにしてみれば、逆にそのことが両者の深い関係を疑わせるに十分なものになっているのです」。こう語るのは、一橋大学名誉教授の加藤哲郎だ。

  CIA内部では、各国の諜報エージェントや諜報対象者について暗号名で呼び合う。日本関係には「PO」を頭につける。解明されているものの一部を挙げると、自由党総裁だった緒方竹虎はPOCAPON、読売新聞社社主で原子力委員会委員長などを務めた正力松太郎はPODAM、あるいはPOJACKPOT‐1、などだ。

  しかし、岸については暗号名すらわかっていない。

  加藤は、緒方や正カの分厚いCIA関係資料を手に取って見せた。緒方は1千枚近く、正力は500枚ほどもある。戦後の日本政界とCIAとの関係を追究してきた加藤は、岸のCIA関係資料はまだ、ほとんどが機密指定を解除されていないとみている。「岸資料の5枚目のあとには、『not declassified』、まだ公開されない、という紙が1枚だけ挟まっている。この1枚の紙の後ろには、何百枚もの秘密資料があるかもしれないのです」。

  岸とCIAの知られざる関係を追って、米アリゾナ州ツーソンに飛んだ。アリゾナ大学の歴史学研究室で教鞭を執る同大教授、マイケル・シャラーは、歴史資料と学生たちのリポートの束に囲まれていた。シャラーは米国務省の歴史外交文書諮問委員会委員を務め、非公開資料にも目を通していた。文書を公開するかどうか国務省に参考意見を述べる立場にあった。

――岸元首相に対してCIAから資金提供があったという話をどう思いますか?

 「そういう証拠はあると思う。賄賂的な意味合いよりは、派閥の運動資金や政治キャンペーン資金というような形で提供されたと理解している」

――資金はどのような形で渡されたのでしょうか?

 「当時、CIAから経済団体や企業を通じて岸のほうに資金が流れたという記述を米国側の書類で私は目にしたことがある」

――経済団体とは経済団体連合会のことですか?

 「それも一つだと思う。それから個々の企業と何かしらの契約を結んで資金を流していくということがあったと思う」

  シャラーは、委員として知りえたことは具体的には明らかにしなかったが、研究者として発掘した機密解除資料については明確に語った。その概略はシャラーの著書『「日米関係」とは何だったのか』にも記されている。シャラーによれば、のちに岸内閣の蔵相になる岸の実弟、佐藤栄作は1957年、米国に対し何度も秘密の資金提供を要請していた。

  このため、CIAから自民党にカネが流れ、「CIAによる資金は、1958年5月の衆議院選挙運動をはじめ、さまざまな方面に使われた」(『「日米関係」とは何だったのか』)。

※週刊朝日 2013年5月24日号


▼憲法改正、集団自衛権行使…安倍首相「岸信介氏の孫という宿命」

(更新 2014/2/14 07:00)

http://dot.asahi.com/wa/2014021200064.html


 安倍晋三首相(59)による集団的自衛権の憲法解釈の見直し作業が本格化する。その先には祖父岸信介元首相の宿願でもあった憲法改正を見据える。「日米安保体制研究」や「岸研究」の第一人者である東京国際大の原彬久名誉教授は、祖父と孫、2人の類似点を尋ねた。

 *  *  *
  安倍さんが2006年、首相に就任する前、政策集ともいうべき『美しい国へ』(文春新書)を出版しました。これを読んだときに「安倍の中にはしっかりと岸がいるな」とつくづく思いました。それだけ2人の考え方はよく似ているんです。

  安倍さんには祖父への憧れがあります。1960年に日米安全保障条約(日米安保条約)を改定する際、安倍さんは時々、東京・南平台にあった岸信介さんの自宅に遊びに行きます。自宅はデモ隊に囲まれていますが、その中で政治家として苦労する姿を見てきた。そんな激動の幼児体験があります。また出身である長州(山口県)的な政治風土を意識しているところがある。吉田松陰が愛読した『孟子』には、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」という言葉があります。岸さんが好んだ言葉であり、安倍さんにも、そうした思想が流れているのかもしれません。

  祖父と孫、2人の政治目標は、米が進めてきた占領政策をいかに克服するかです。岸元首相は一貫して「サンフランシスコ体制」の打破を目指し、安倍首相も「戦後レジームからの脱却」を掲げている。

  岸さんの戦後政治家としての出発点は、A級戦犯として3年3カ月、巣鴨プリズンに収監されたことでした。「米に対して戦争責任があるとはちっとも思っていない」と言っており、親米ではありません。釈放後は、吉田さんがサンフランシスコで講和条約と同時に締結した隷属的な日米安保条約の改定に力を注ぎます。吉田さんの安保条約は日本が米に基地を提供するが、米が日本を守ることは明文化していない。米に相当有利な内容でした。

  安保改定は、この「サンフランシスコ体制」を壊すためのものです。でも新安保条約も岸さんにとっては満足するものではなかった。憲法を改正し、集団的自衛権がきちんと行使できるようにならないと、完成しないと考えていたんです。

  その憲法については、制定の経緯からして間違っていると主張していました。改正するには国会で数を取らないといけない。そのために政界再編だ、保守合同だとなるわけです。

  安倍さんが今歩んでいるのも同じ道です。同じく必ずしも親米ではない。戦後レジームの象徴である憲法の改正をゴールに置き、その前に、集団的自衛権の行使を解釈変更で可能にする。岸さんの安保改定は未完成交響曲であり、未完成部分について孫はよくわかっています。憲法改正し、堂々と集団的自衛権の行使が許されるようにしたい。そこまでが難しいのであれば、少しでも近づけたい。首相の私的諮問機関として立ち上げた「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」は、そのためのものです。

※週刊朝日  2014年2月21日号


▼岸信介の「作品」 アヘン中毒の悲惨な実験国家

(更新 2013/5/11 11:30)

http://dot.asahi.com/wa/2013051000039.html

 「革新官僚」として統制経済を唱えた戦前の岸信介は、満州国という実験国家を自らの「作品」と呼ぶ。しかし、満州国のベールをはぎ取った実態は、戦費のために人々をアへン中毒に追い込み、ぼろぼろにする悲惨なものだった。

  岸が満州国の実業部総務司長に転出したのは1936年10月。翌年には産業部次長兼総務庁次長に昇進、満州国の実質的な最高首脳のひとりとなった。最高首脳として推進した政策は、産業開発5カ年計画の実行と日本産業(日産)の満州国誘致だった。

  岸は遠縁に当たる日産の総帥、鮎川義介(よしすけ)を説得するために、軍用機を使って満州国の新京と立川飛行場の間を往復した。鮎川は、日産コンツェルン全体の満州国移駐を決め、満州重工業開発(満業)を誕生させた。満州国経済は文字通り、岸の「作品」となった。

  しかし、5カ年計画や満業が「作品」の表の顔だったとすれば、裏の顔はアヘン政策だった。岸は「満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった」と言っているが、実態とはかけ離れている。

  ここで、「アへン王」と呼ばれた男、里見甫(はじめ)の証言を聞いてみよう。

  1946年3月1日、里見は、国際検察局(IPS)に逮捕された。IPSは極東国際軍事裁判の法廷に、日本最大の戦争犯罪のひとつであるアヘン政策を告発するために里見の身柄を確保、同月5日から尋問を始めた。尋問にあたったのはIPS検察官のウィリアム・ホーナディ陸軍中佐。

  筆者は、ワシントン郊外にある米国国立公文書館別館を訪れ、同館所蔵の里見尋問調書全文を入手した。

  調書の中には、尋問中に里見が書き、IPS速記タイピストがタイプし直したチャート図が1枚あった。まさに「アヘン王」自らが示す中国大陸アへン流通の概略図だ。

  図を解読してみると、アへンは満州国と蒙彊(もうきょう)政権管内で生産され、北京と上海を中心に広東、厦門(アモイ)、関東州、日本で消費される。この流れを東京・霞が関で監督しているのが、1938年に設置された興亜院だ。

  アへンは芥子(けし)の実から採れる。原料アへンからモルヒネやヘロインができるが、原料アへンを少し加工したものでも、その煙を吸うとあらゆる苦痛が鎮まり、多幸感が得られる。アへン吸飲は容易に中毒となる。アヘンが切れると中毒者には厳しい禁断症状がやってくる。その苦痛のために気絶することもまれではない。このため、中毒者は妻子を売ってまでしてアヘンを手に入れようとする。アヘン売買はまちがいなく大きな儲け口になる。

  満州国はアヘン吸飲を断固禁止する政策を採らず、登録した中毒者には販売する漸禁政策とアへン専売制を採用した。しかし、登録制度は機能せず、だれでもアへンを買えた。戦前日本のアへン政策を追究した元愛知大学教授、江口圭一の『日中アへン戦争』によれば、満州国のアヘン専売利益金は、岸が赴任した1936年度には全歳入の5.0%だったが、岸が帰国する1939年度には5.6%にまで伸びた。

 (本文敬称略)

※週刊朝日 2013年5月17日号
 


▼歴史文書スクープ 岸信介宛て、石橋湛山"私信"の核心 第3回
2016年11月13日号
http://mainichibooks.com/sundaymainichi/column/2016/11/13/post-1215.html

サンデー時評 倉重篤郎



  ◇大反響

  戦後保守の良識を代表する石橋湛山が、60年安保の渦中に岸信介首相に宛てた手紙が発見され、そこには昭和天皇と思われる人物の「(岸氏は)先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東條以上」という言葉が引用されていた。大反響の歴史スクープ第3弾は、湛山研究者・増田弘氏と、岸研究者・原彬久氏の座談により、「私信」の核心に迫る。(文中敬称略)

  ▼湛山研究者・増田弘氏と岸研究者・原彬久氏が語る
 ▼私信ゆえに本音、高い史料的価値
  ▼昭和天皇の二重の意味での政治性

  岸信介氏に宛てた石橋湛山氏の私信。
  思い出話から始めたい。
  昭和天皇が亡くなったのは1989年1月7日だった。当時、私は政治記者として、岩見隆夫さんがキャップの取材班に所属、「昭和天皇とその時代」という連載企画の中で、「沖縄メッセージ」をテーマにした原稿を書かせてもらった。
  沖縄メッセージとは、47年9月、昭和天皇が宮内庁御用掛を通じ米当局に対し、当時米が軍事占領していた沖縄の扱いについて、日本の主権を残しながら長期貸与方式で軍事占領を続けることを要望したものだ。
  進藤榮一筑波大助教授(当時)が78年に米国立公文書館で発掘した文書だった。新憲法下で独自の戦力を持たない日本の安全を守るための、その後の沖縄の運命を決めた、実にリアルで、ある意味無情とも言える戦略的提案だ。政治家・天皇にスポットを当てるには格好の材料に映った。
  ただ、昭和天皇が戦後の日本の枠組みを決めるうえで役割を果たしたのは沖縄問題だけではなかった。豊下楢彦元関西学院大教授の最新の研究成果『昭和天皇の戦後日本〈憲法・安保体制〉にいたる道』(岩波書店、2015年7月)によると、新憲法制定や東京裁判では天皇制存続のために動き、日米安保条約締結においてもワシントンとの間で非公式チャンネルを作り影響力を行使した、という。
  石橋私信における「ある一人の人」もまた、戦後11年経(た)ったのに、なお政治的言動を捨てきれなかった昭和天皇の姿を髣髴(ほうふつ)させる。その政治性は、沖縄メッセージや憲法、日米安保には至らないが、政治的言動が現実政治に反映し、もう一つの政治性を再生産した、という二重の意味での政治性を帯びたケースといえる。
  つまり、石橋湛山首相に対し、岸外相起用に難色を示すという政治的言動を行使、3年半後は石橋氏がその発言を引用し、岸首相に対し安保改定を諫(いさ)め、延期を主張する。この二重の政治性こそが石橋私信という新発見文書の核心ではなかろうか。
  私信を発見した石橋氏研究の泰斗・増田弘立正大特任教授、岸氏研究の第一人者・原彬久東京国際大名誉教授に私信発見の意義について対談していただいた。

  ◇「ある一人の人」はやはり昭和天皇

 原 貴重な資料を見つけましたね。
 増田 ええ、びっくりしました。1980年代ですか、湛山側近の大原万平さん(石橋氏の初代秘書で東洋経済新報常務)からさりげなく聞いていましたが、半信半疑でした。ところが、昨年8月、湛山が社長をしていた東洋経済新報社の120周年記念の行事があり、社の倉庫の資料を自由に見ていい、と言われ2度調査、段ボール箱の中から、湛山の直筆の草稿と清書したもの2点を発見したのです。
 原 私も読んでびっくりしました。ざっと一読後の感想と熟読後の感想が二つあります。一読後はそのスタイルに感じるものがありました。戦後政治研究者として、吉田茂の岸信介宛ての書簡などを読んできました。巻紙にしたためた風格のあるもので、封筒には「岸首相閣下」とあります。丁寧な前書きから始まる書でした。そういうものを見慣れてきただけに、湛山の私信は現職首相にいきなり抗議文を突き付けたような書き出しなので驚きました。
  熟読後の感想はまた別のものでした。「ある一人の人」が昭和天皇以外にないな、ということです。直接証拠はないわけですが、状況証拠としては天皇に限りなく近いなと思いました。ただ、それにしてもこれは本物なのかと思いました。あの湛山が、戦後15年目の民主主義社会の真っただ中で、現職の首相に対し、民主主義を踏みにじっているとして、天皇を持ち出し、ある意味、虎の威を借りた形で抗議する。この手法が私には少し違和感がありました。湛山はそういう人ではないだろうという気持ちがあったからです。
 増田 湛山がこの私信を出したのは60年4月ですが、1月にも大久保留次郎衆院議員との連名で安保改定調印のためワシントンに赴く岸宛てに進言書を出しています。前の年の59年9月には、米国・キャンプデービッドでアイゼンハワー大統領とフルシチョフ・ソ連首相の会談があり冷戦に雪解けムードが出ていました。湛山は、冷戦は世界人類の進歩にマイナスとの持論でしたから、この首脳会談を重視、安保改定調印を機に中国との国交正常化を米大統領宛てに働きかけてほしい、という内容のものでした。59年9月には湛山本人が訪中して石橋・周恩来共同声明を出しています。そういう国際時局全体の中で安保改定を見ていたのです。
 原 それはいかにも湛山らしい動きだと思います。国家の政治外交に貢献するもので、何の問題もありません。私が関心を持ったのは湛山が新憲法下の民主主義にどう向き合っていたのか、ということです。天皇を持ち出した、というやり方の問題です。ご承知のように、昭和天皇は戦後の日米間の重要外交問題に時折登場します。沖縄メッセージのように。それはあたかも旧憲法下の天皇であるかのようです。私信を拝見してやはり戦後11年経ってもその延長線上にあったのかという思いでした。同時に天皇は別にして、リベラリストの湛山がこういう形で出してくることに若干の意外性があったのです。
 増田 天皇発言に対し湛山は首相として百万辞を盡(つく)して岸を弁護した、と言っています。党内最大勢力を誇る岸を閣内に入れないと、政局の安定が得られません、などと説明したのでしょうが、(天皇の岸批判は)湛山からすれば衝撃的なことだった、と思うのです。
 原 湛山はそう(岸氏を戦争責任者だと)思っていなかったですかね。
 増田 もちろん湛山は岸を戦争責任者だと思っていたでしょうね。ただ、天皇がそこまで言うとは意外だったのではないでしょうか。しかも東條以上という。その意外性があり、彼自身がやむなく病気で退陣し、その後を岸首相に委ねることになってしまった。岸もまた後継首相として閣僚名簿を出したことでしょう。天皇の真意を知ってしまった湛山にとって、自分の事情でそうさせてしまったことに申し訳ない、と。
 倉重 つまり、湛山としては岸内閣の製造責任者としてやむにやまれぬ思いがあったはずです。昭和天皇の意外な胸の内とその時に自分が岸を弁護したことを岸に知ってもらいたい気持ちもあったのでしょう。そうすることが、天皇への申し訳を立てることにもなるのではないかと。
 増田 そこには湛山の天皇観もあると思います。天皇は戦後、国民統合の象徴になりましたが、湛山はその点においては戦前と変わっていないと思っている。君臨すれど統治せず、という点では変わっていない。だから天皇制こそが日本を戦争に導いた原因であり、平和のためには天皇制を淘汰(とうた)しなければならないという考えではありませんでした。ところで、60年安保闘争の混乱を昭和天皇がどう見つめていたのでしょうか。
 原 天皇が岸の安保改定を支持したかどうかはわかりません。ただ、



この続きは2016年11月13日号本誌をご購入ください。

▼西田勝・平和研究室

 「満洲開拓」と現地中国農民
http://nishida-peace.world.coocan.jp/KKmansyukaitaku.html

 ■フアシズム運動としての「満洲移民」
  私の本来の職業は文芸評論家です。それでは食べられず、大学に出稼ぎに行き、大学の先生になった次第です。法政大学は、先輩たちの努力のお蔭で公的年金のほかに、いわゆる企業年金というものがあり、二つを合わせると食べるには困らないというので、定年を延長せず、一五年前、六五歳で大学を退職しました。今、二〇世紀初頭に人種的・社会的・性的格差のない、国家を超えた、緑の世界共同体を構想した田岡嶺雲(ルビ れいうん)という文芸批評家で思想家の全集の編集と解題の仕事をしています。本当に辛気くさい仕事で、定年までに終わらせる予定だったんですが、一九七〇年代の末から市民運動に深入りして、アッという間に二〇年余が経ってしまい、朝から晩までパソコンにかじり付いている次第です。そのため、この頃、背中が少し曲がってきていますが、ひととは反対に座っているのより、鳥のように立っているほうが楽なので、今日は立って話させていただきます。
  自己紹介はこれくらいにして本題に入りますが、私は志を同じくする学者や作家たちとともに、一九九〇年代初めから中国東北部の学者や作家たちと、あの「満洲国」についての共同研究を始めました。その成果が、この『《満洲国》とは何だったのか』(二〇〇八年八月・小学館)という本です。当初は部厚い上下二巻くらいの研究論文集として出すことを計画していたのですが、「満洲国」の崩壊から五〇年、日本だけではなく中国でも若い世代は、この時代のことはほとんど教えられていないというので、専門的な研究論文集より共同研究の成果を踏まえた啓蒙的な本を日中共同で作り、同時に出版しようということになり、出来上がったのが、この本です。
  そして、この仕事を進めている過程で、中国側の責任者から一冊の「満洲開拓」に関する調査研究書(孫継武・鄭敏編『日本向中国東北移民的調査与研究〈中国東北への日本移民の調査と研究〉』二〇〇二年一月・吉林文史出版社)を頂戴しました。これを読んで私は強い衝撃を受けました。そのなかに、これまで知らされてこなかった「満洲開拓」の裏面を赤裸々に伝える現地中国農民の証言が数多く収められていたからです。誰かこれを飜訳してくれる人はいないかと思っていたところ、その人が現われ、私が訳文に目を通しているうち、途中でガンが見つかって亡くなってしまいました。そこで、やむなく、その人の遺志を受け継いで完訳し、それに簡単な「満洲開拓」の?史や年表、さらには注を加えて出来たのが、この、やはり小学館から出た『中国農民が証す「満洲開拓」の実相』(二〇〇七年七月)です。これを読めば、一応「満洲開拓」の?史の大筋もわかるというように作ってあります。というわけで、私はいつの間にか、小田実の言葉を借りていえば、本業の文芸評論から「遠く離れて」「満洲開拓」のにわか研究者になった次第です。そのため、昨年は、「満洲」への移民をもっとも多く送り出した、信州は飯田市の団体に呼ばれて「満洲開拓」についての講演さえやりました。
  「にわかプロ」ですから、限界は、もちろん、あります。しかし、私のように、この「満洲開拓」の裏面について探索している人は殆ど見かけないのが現状です。実際、移民たちが敗戦後、受けた被害―進攻してきたソ連軍や暴徒化した中国農民たちによってどんなにひどい目に遭ったかということについては、実にたくさんの記録が出ています。また、それについての映畫も少なからず作られていますが、「開拓団」が行なった加害についての記録や映画はほとんどありません。
  「満洲開拓」というと、言葉の魔術で、彼ら移民が地の果てまで続く「満洲」の大地を開拓した筈だと思うでしょう。しかし、実態は全く違うのです。彼らは開拓など、ほとんどしていないのです。だから、私は、今日の演題を御覧のように「満洲開拓」という言葉に括弧をつけることにしています。生き残って帰ってきた移民たちは戦後、その一部が岩手の山奥や富士山麓に入って原野を開きました。だから、これは言葉の本当の意味での開拓で、移民たちは「満洲」でではなく、むしろ日本に帰ってきて初めて開拓を経験したのです。
 当初は「開拓」あるいは「開拓団」という言葉は、使われていませんでした。「移民」あるいは「移民団」といわれていました。「満洲国」政府が正式に日本人移民を「開拓民」、移民地を「開拓地」、移民政策を「開拓政策」と呼んだのは、一九三九年二月のことです。
ですから、当初は「移民」あるいは「移民団」と呼ばれていました。しかし、「移民」といっても、この「満洲」移民というのは、ハワイ移民やブラジル移民とは性格が全く違います。ハワイやブラジルへの移民は、いわば平和的移民ですが、こちらは武力を背景とした移民、そういう言葉を使えば、「侵略移民」だったということです。
  「満洲移民」も入植するに当たっては、一応は「買収」の形式を取っているものの、最初は、関東軍が強制的に中国人から土地権利証を取り上げ、勝手に安い値段を押しつけて買収し、その土地を日本からきた移民に配分したのです。後になると、あまりに露骨だというので関東軍は後景に退き、「満洲国」の外郭機関である「満洲開拓株式会社」というのが前面に出て買収に当たりますが、事柄の本質は同じです。通常の買収ではなく、武力を背景としての略奪でした。中国人が奪われたのは、長い間、彼らが耕してきた土地だけではありません。住み慣れた住居さえ奪われているのです。
  なぜ、このような「満洲移民」が行われたかといいますと、背景には世界恐慌下の農村の余剰人口、つまり農家の次男や三男坊をどうするか、という問題がありましたが、何よりも大きな、そして決定的な契機となったのは、日本軍部の対ソ戦略です。ソ連に攻め込むための予備戦力、そのための食料基地を確保するという目的がありました。そこには、もう一つ、抗日ゲリラへの対策というのもありました。つまり「屯田兵」です。だから最初期の移民は「武装移民」と呼ばれました。
  いわゆる「満洲開拓」の?史は、およそ三つの段階を経ています。第一段階は一九三二年一〇月から一九三六年五月までで、この「武装移民」の行われた時期です。一般に「武装移民」期あるいは「実験移民」期と呼ばれています。いわゆる「満洲事変」が起きた、というより起こしたのが一九三一年九月一八日、そして「満洲国」が作られたのが翌年の三月ですから、その七ヵ月後に第一次の「武装移民」が日本から「満洲」に送られたのです。具体的には、それ以前に日本で募集され、茨城県にあった加藤完治の経営する日本国民高等学校で速成の訓練を受け、ソ連領に近い佳木斯(チャムースー)地方に送られて行った。「屯田兵」ですから、普通の農民では、すぐには役に立ちませんから、すべてが在郷軍人でした。そこもハワイやブラジルへの移民とは全く違うところです。そういう意味では、「満洲移民」は一種のフアシズム運動だといえるでしょう。
  日本のフアシズム運動がいつ始まったかというと、私の見るところでは、一九二三年九月の関東大震災です。一九一〇年代の初頭に始まった、いわゆる「デモクラシー」運動は元はといえば陸軍の二個師団増設の反対から始まった巨大な軍縮平和運動で、そのなかから吉野作造による、軍部の独走を許す「帷幄上奏権」の廃止という主張も生まれました。もし、この「デモクラシー」運動が、軍部の独走を許す「帷幄上奏権」というものを廃止することに成功していたら、「満洲事変」は言うまでもなく、それを発端とする一四年間に及ぶ戦争もありえなかったでしょう。日本の近代史の中では日露戦争前後が軍人の評価が一番高かった時で、「娘を軍人に嫁がせるのは名誉」という風潮が支配的でしたが、「デモクラシー」運動の発展とともに、社会での軍人の地位は急速に下がり、「娘を軍人には嫁がせたくない」というように空氣が変化してきます。そこで、「デモクラシー」運動の前途に恐怖を抱いた軍部が大逆転を狙ったのが、関東大震災時の混乱に乗じての大虐殺でした。
  アナーキストの大杉栄や伊藤野枝の虐殺、すぐれた労働運動の指導者だった平沢計七をはじめとする南葛の労働組合運動の活動家の虐殺は直接、軍部が行なったものですが、数千人に及ぶ朝鮮人や五〇〇人余の中国人を主として殺したのは、軍部の謀略に踊らされた、地域住民によって組織された「自警団」でした。その「自警団」の中核になったのは誰かといえば、在郷軍人でした。非常時とはいえ、人間を殺すということは、普通の市民にはなかなか出来がたいことです。
  数千人に及ぶ近隣民族の虐殺―これは、日本における「水晶の夜」だったといえるでしょう。私は、この関東大震災での朝鮮人や中国人の大虐殺を「一四年戦争」の起点だと考えています(詳しくは拙著『近代日本の戦争と文学』所收の「戦争への起点としての関東大震災」参照)。私は「一五年戦争」とは言わずに、「一四年戦争」と呼んでいます。「満洲事変」の勃発から敗戦までは一三年と一一ヵ月です。今は年月を満で数える時代なので、この言葉の成立事情が全く忘れられた結果、「一五年間」戦争が続いたと誤認する人が多くなっています。そこで、何年か前に「一四年戦争」と呼ぶようにしたらどうかと提案したことがあるのですが(「気になる戦争の呼称」、朝日新聞一九九三年八月三〇日夕刊。前掲書所収)、あまり広まりませんでした。
  それはとにかく、この関東大震災での「自警団」の活動は、それから数年後、関東軍によって学習され、「満洲国」を「建設」する際のお手本になりました。「満洲国」は「満洲事変」後、中国東北部の各地域に、中国人の協力者を引き込んで「自治政府」なるものを作り、それらを積み重ねて「満洲国」をでっち上げて行くのですが、それをソフトの面で担ったのが「自治指導部」と呼ばれたグループで、それを各地域で支えたのが在郷軍人でした。つまり、軍部は関東大震災では、在郷軍人を中核とした「自警団」を操って大虐殺を行ない、「満洲国」を作る時にも、同様な方法で在郷軍人の協力をえて、その「建国」を実現して行ったのです。
  前に戻っていえば、この「武装移民」も、関東軍による同様な発想で企てられたもので、第一には対ソ戦略のための関東軍の補助勢力として、第二には、そのための食料基地として、第三には、抗日ゲリラの活動に対する抑えとして、まさに一石三鳥を狙って企てられたものなのです。

  ■「自作農主義」から「地主経営」へ
 ここに日中戦争が始まる直前の一九三七年三月、満鉄―正確には「南満州鉄道株式会社総裁室弘報課」が発行した『満洲は移民の楽土』というパンフレットがあります。こういうパンフレットを作って満鉄も「満洲移民」を勧誘したのです。
  このパンフレットには三種類の移民村が紹介されています。一つは拓務省が主として農民を対象にして募集した移民で、「拓務省移民」と書かれています。さきほどの第一次「武装移民」もこの中に入ります。第一次「武装移民」は東日本一一県在住の在郷軍人を対象に集満鉄発行の小冊子写真めて、編成された者ですが、後になると、拓務省は山形や長野の貧しい小作人たちを村単位、部落単位、地域単位に編成して送り出して行きます。その人たちもこの中に入ります。
  二つは「鉄路自警村」といわれるもので、満鉄の鉄路を防衛するのを目的として編成された部落です。この部落の場合は、現地で関東軍を除隊した者たち、要するに新規の在郷軍人を中核にして作られたものです。興味深いことに、そこには、はっきり「鉄路自警村」というのは「いはば一種の武装移民であり、また特殊な屯田兵のやうなもの」であるとはっきい述べられています。
  三つは「集団的自由移民」というもので、主として都市から集団で移民してきた人たちです。こ
 こには、東京の深川の失業者を組織して送り込んで出来た「天照村」と、天理教の信者で作られた「天理村」とが紹介されています。
  満鉄発行のこのパンフレットは、タイトルが示すように、「満洲」がどんなに「移民の楽土」かと
 いうことを伝えるために作られているわけですが、ではどんなふうに「移民の楽土」として描き出されているかといえば、「満洲」は「冬は最低零下三十度に下るところもあるが、五・六・七月は北緯四十度にある青森よりも却つて気温が高い。また夏は日が永く、日中相当に温度が昇ることは北満洲の農業上有利」で、地味も肥えていて、当初はいろいろ困難はあったが、今は医療や敎育設備も完備し、鉄道も敷設され、「移民たちは、自分で造つた米の飯を食べ、やはり自製のお酒や煙草をのんで暮らすといふ、内地では思ひもよらぬ明朗な明け暮れを送つてゐるのである」と謳い上げているわけです。
  では、実際はどうかといいますと、たしかに、このパンフレットができた頃には、「内地では思ひもよらぬ明朗な明け暮れを送つて」いたようですが、第一、「自分で造つた米の飯」と謳い上げていますが、ほとんど自分では作ってはいないのです。米はほとんど朝鮮人の小作人にやらせ、畑作についても大抵は中国人の労働者を使って行ない、手に余った土地は中国人や朝鮮人に小作をさせていたのです。このパンフレットでは、「拓務省移民」について触れているところでは、ぼかして曖昧に書いていますが、東京深川の失業者によって作られた「天照村」を紹介しているところでは、露骨に「日本に在つては一介の失業者も、ここでは立派な地主といふ訳で、現在一人当り十六町歩の耕地を担当して農業に、牧畜に相当な成績をあげてゐる」と述べています。事実は、これ以上だったと思います。
  まとめていえば、移民たちは「開拓」など、ほとんどしていないのです。中国人が耕していた土地や住んでいた家屋をタダ同然のお金で奪い取り、土地を奪われた中国人農民を雇ったりして畑作を行ない、手に余った土地は朝鮮人や中国人に小作に出し、日本では一介の貧しい小作人や失業者だった者が「移民地」では豪農でなければ地主になっていたというわけです。
  説明が後先になりましたが、「満洲開拓」の第二段階は、本格的移民期といわれるもので、日本政府と「満洲国」政府によって「満洲移民百万戸移住計画」というものが策定された一九三六年五月から「大東亜戦争」が始まる前までが、それに相当します。なぜ「満洲移民百万戸」なのかといいますと、今後二〇年間に「満洲国」の人口が五〇〇〇万に達すると見立て、その際、日本人が「指導民族」として、その一割を占めなければならないとの計算から、一戸当たり五人として一〇〇万戸の移住が必要となったのです。つまり、この満鉄のパンフレットものです。
  しかし、この「本格的」な移民事業も、一九三七年七月に始まった日中戦争の開始と進行によって停滞を余儀なくされます。なぜかというと、日中戦争の拡大と、それが日本国内にもたらした軍需景気によって、一方では兵隊として、他方では軍需産業の労働者として、移民供給源だった農村の余剰人口や都市失業者が、それらに吸収されて、移民する者がすっかり減少してしまったからです。そのために日本政府は二つの政策を立てます。一つは、「分村」や「分郷」の名で半ば強制的に貧しい農民たちを移民団に編入させて送り出すことと、二つは忠君愛国イデオロギーで少年たちを絡め取って「満蒙開拓青少年義勇軍」に組織し、「満洲」に送り、将来に備えることでした。
  他方、「満洲産業開発五ヶ年計画」の開始で、鉱山や土木部門に、高賃金のために農業労働者が流れ、また日中戦争の進行とともに出稼ぎ農民の渡来も減少して、移民団や移民の中には自作を放棄し、小作に依存する傾向が次第に濃くなって行きました。
  第三段階は、衰退・崩壊期と呼ばれるもので、「大東亜戦争」の開始から敗戦までが、それに相当します。戦局の悪化とともに、航路の安全も保障されなくなり、第二段階の終わり頃には、すっかり先細りになっていた移民団の送り出しもばったり途絶えてしまいます。そして、それに追い打ちをかけるように、敗戦直前には、関東軍による、移民団内の壮年男子の根こそぎ動員があり、移民地は、ほとんど年寄りと女子供だけが残されるという有様となりました。つまり、一九四五年八月、ソ連軍が参戦を表明して「満洲」に進駐してきた時には、男らしい男は移民地にはいなかったのです。だから、それだけに移民たちの避難行は悲惨なものになりました。
もともと関東軍の武力によって成立した「開拓」あるいは「開拓団」ですから、その武力が崩壊すれば、一挙に崩壊に至るのは当然です。

  ■土地だけではなく家屋も奪われた中国農民
  ところで、元に戻りますと、関東軍によって土地と家屋を追われた現地の農民たちは一体どこに行ったのでしょうか。彼らのうち、土地に残った人は、日本の移民団あるいは移民の小作人になるか、その農業労働者になりました。
  その点をもう少し詳しくいいますと、この農業労働者には三種類の階級がありました。第一は「年工」(ルビ ニエンコウ)、といって、一年契約の農業労働者です。第二は「月工」(ユエコン)といって、一月ごとの契約者です。第三は「日工」(リーコン)でいって、いわゆる日雇い労働者です。どうして、このように異なる雇用形態の農業労働者が生まれていたかというと、これは当時の中国東北農業のあり方からきています。当時の中国東北の北部一帯の農業というのは、大豆・トウモロコシ・高粱などを作る大規模農業で、耕作はもっぱら馬と馬橇を使ってやります。「満洲」は四月の終わりに一挙に春と夏が一緒に来て一〇月初めには、ぐっと寒くなるので、農作業時期はわずか半年です。土地が肥沃なので、肥料をやらなくても作物が育ったそうですが、それだけに雑草もすごく生育するので、それを刈り取るのも大変な仕事です。四月から五月にかけては耕作や播種、それから草取りと収穫、そのために大量の農業労働者が必要となります。これらの仕事をするために、大量の「日工」や「月工」を雇うわけですね。その中身は主として中国本土からの出稼ぎ農民で、彼らは三月か四月頃に山東省や河北省から大連などを経由して現地に行って働き、収穫が終わる一〇月の終わりには再び故郷に帰ってゆく。だから、「燕人」とも呼ばれました。「年工」というのは日本の作男のようなもので、移民団か移民の家に住み込み、大規模な農作業では「月工」や「日工」の監督もします。
  では村に残れなかった者たちはどこへ行ったのでしょうか。彼らのほんどは、さらに奥地に追いやられて、文字通り荒野の開拓に挑みました。彼らは「県内開拓民」と呼ばれ、なかには山間の鉱毒の滲み出る湿地帯に追いやられ、風土病で村民がほとんど死滅するというひどいケースもありました。死者が次々に出るので、最初は死者を飼葉桶に入れて埋葬したが、次には古い板で作った棺桶に入れ、それも出来なくなると、最後には死体を裸のまま凍り付いた川辺に放り投げたいいます。
  さらに、この「県内開拓民」にもなれなかった者たちはどうしたかというと、乞食になって放浪し、野垂れ死にした者も少なくなかった、ということです。
  これらのことは、この『中国農民が証す「満洲開拓」の実相』という本の中に収められた証言や記録のなかに、つぶさに語られています。興味のある方は、ぜひこの本について見て下さい。

  ■中国農民の憎悪を煽った「少年義勇軍」や「開拓団」の犯罪
  それだけではありません。現地の中国農民は、その耕作していた土地や、住んでいた家を奪われただけではなく、日常生活でも、さまざまな被害を受けています。殴打は日常茶飯事で、暴行を受けたり、家畜を盗まれたり、女性たちはレイプを受けたりしました。
  「満蒙開拓少年義勇軍」―「満洲国」では「軍」というのは露骨だというので、「開拓青少年義勇隊」と呼ばれていましたが、まず彼らの犯した犯罪について触れますと、たしかに彼らは大方が農村の非常に貧しい農家の子弟で、当時の格差社会の犠牲者でした。しかし、その犠牲者の彼らが「満洲」では中国人や朝鮮人に対する残酷な加害者として現われたということです。現在までにおびただしい数の「開拓団」や「青少年義勇軍」の回想録が出されていますが、ほとんどが自分たちの犯した犯罪については口をぬぐっています。特にレイプについては全く触れていない。また「開拓団」や「青少年義勇軍」について書かれた本や映画も、敗戦後の悲惨な逃避行については、これでもか、これでもかとエンエンと描き出していますが、彼らの犯罪については、ほとんどが沈黙しています。唯一の例外は児童文学評論家の上笙一郎さんが一九七三年に書いた『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書)で、上さんは「青少年義勇軍」も根本的には犠牲者だから、心情的には書きたくないのだが、事実は事実として明らかにしておく必要があるといって、こんなふうに述べています。
  「…義勇軍の少年たちは、どのように中国人をいためつけたかといえば、まずもっとも多かったのは盗みであった。中国人の飯どきを狙って部落に遊びに行き、粟飯や包米飯(「包米パオミー」とはトウモロコシのことです)にありつくというのからはじまって、放し飼いにされている鶏・家鴨・犬・豚などを密殺し、さらには包米・豆・芋・西瓜畑などに忍び込んで作物を盗むのだ。
  西瓜などはせいぜいリュックサックに背負って盗む程度だったが、主食となる包米となると、盗みの規模がちがっていた。寧安訓練所成沢中隊が出した『ああ満蒙開拓義勇隊東海浪始末記』の一文によると、《四、五人で馬車を用意して、誰にも遠慮なく堂々と出かけ》、もし畑の持ち主の中国人がいたら、広大な《畑の裏側に回って馬車を横付けにして悠々と…よくみのったものばかりを選んで,たっぷり盗ってくる》のだという。(後略)
  そうして休日などに町に出れば、中国人の商店から品物を掻っぱらった。その手口は、まずひとりがわざと見つかるように品物を盗って逃げ出し、商店主が後を追いかけると、その時を待っていた他の連中が店に殺到し,持てるだけの品物を持って四方に散らばって逃げるのである。
  中国語で泥棒のことを《小盗児(シヤオタオル)》といい、少年たちも自分たちの行為を《小盗児》〉と呼んだが、中国の農民たち義勇軍そのものを《小盗児義勇隊》と呼んでいたということだ。
  こうした盗みに次いで多かったのは、女性への凌辱を含む身体的暴行である。盗みを働いている現場を中国人に発見されれば、かえって高圧的に腕を振り上げたりしたほか、相手の顔が気に入らないとか、先輩になぐられたのが癪にさわるといった無茶な理由で、殴打したり蹴飛ばしたりしたのである。
  ただ、さすがに女性に対する凌辱に関しては、たくさん出ている義勇隊中隊史のいずれもが、申し合わせたように口を閉ざして、ただの一行も言及していない。だが誰一人語らなかったと言って陵辱事件がなかったのではない。(中略)中国女性への凌辱は,殴打と同じくらいの頻度で行われていた。…
 名前を明記することは避けるけれど、ある旧義勇隊員が私に証言してくれたところによると、義勇軍のある部分は、盗んだ酒のいきおいを借りて中国人部落へおしかけ、女性と見れば手あたり次第に姦(おか)したという。彼らは若い娘であろうと、有夫の婦人であろうとみさかい無く毒牙にかけ、ときにはわざと家族の眼前で事をおこなった。そしてその女性の父母や夫はといえば、そのように悪虐をつくした義勇隊員に向かって地面に両手をつき、《謝謝(シェシェ)謝謝》という以外に許されなかった-ともいうのである」
  少年たちの悪戯ともいうべき段階を超えて、明白に犯罪と見なければならぬこれらの行為に対して、満洲警察と日本軍は見て見ぬふりをしていたといえよう。植民地警察としての満洲警察には、日本人の義勇軍を捕える力も勇気も持たなかったし、事件を黙視しにくくなって調査にやってくる憲兵も同じ日本人を法律の犯罪人にしたくないという気持ちがあるためか、義勇軍の訓練所長や中隊長に懐柔されて、〈微罪につき取り上げず〉という処置で済ましてしまうのが常であった」。
  以上です。上さんの本は満蒙開拓青少年義勇軍の全容を簡潔にまとめた、すばらしい本ですが、彼らの犯罪を明らかにしたためか絶版になっています。何者かによる出版社への圧力があったためと聞いています。
  「青少年義勇軍」の犯罪は、犯罪例が多くて、すべてを抹殺することができなかったのか、「満洲国最高検察庁」が「大東亜戦争」が始まった年の一九四一年に出した「満洲国開拓地犯罪概要」という文書(一九七八年五月・新人物往来社刊の山田昭次編の『近代民衆の記録6満洲移民』に所收)の中でも一章を設けて取り上げています。「第八章 満蒙開拓青少年義勇隊ノ犯罪」というのが、それですが、そこには、こんな興味深い「概説」がつけられています。
  「青少年義勇隊ノ犯罪ハ増加ノ傾向ニ在リ。犯罪ノ種類ハ騒擾、殺人、傷害、暴行等甚ダ粗暴ナルモノノ多イノハ何レモ血気ニハヤル年代ノ人達ノ為デアロウ。コノ他、隊ノ物品ヲ横領或ハ窃盗シ、コレヲ隊外ノ飲食、遊興ニ充当シテ居ル傾向モ各地ニ見受ケラレル。騒擾、暴行、殺人、傷害等ノ原因ヲ見ルト、幹部ニ対スル不満或ハ訓練不充分ノ為余暇アルコトヤ、満人トノ言語不通、優越感等ニ発スルモノガ多イ。
  此ノ内、尤モ注目スべキコトハ指導者ニ人ヲ得ナイト言フコトニアル。」(原文には句点がないが、読みやすくするため句点をほどこし、また適当に読点も加えてある。以下も同じ)
  まあ穏当な説明ですが、問題は、この「優越感」の中身です。中国人や朝鮮人を人間以下のものと見て、彼らに対して何をしたって構わないというものですね。この章には、三〇近い事例が記録されていますが、一つだけレイプに言及しているものがあります。参考のために、その一例を読み上げてみます。お手元にある資料を御覧になりながら、耳を傾けて下さい。それは「騒擾 山崎義雄 外百七名」として立件した事件で、こんなふうに記録されています。

  「一、開拓青年義勇隊満鉄豊栄訓練所ハ十六歳乃至二十一歳ノ訓練生三百三十名ヲ収容シ居ルモノナルトコロ
 (イ)康徳七年(一九四〇年)十月六日午後七時頃、池田健蔵外五名ハ永安二道溝(ヨンアン・アルタオゴー)ニ赴キ、部落民孫喚章(スン・フアンチャン)ニ対シ鶏ヲ貰ヒ度キ旨要求シ、家人ヨリ之ヲ拒マレタルニモ拘ラズ鶏1羽ヲ捕ヘ、又連行シタル畜犬ガ食ヒ殺シタル鶏1羽ヲ所持シ、隣接セル趙国喜(チャオ・クオシー)方ニ立寄リ、鶏卵二十個ヲ要求、無償ニテ貰ヒ受ケタル上、更ニ隣家干延海(ユイ・エンハイ)方ニ立入ラントセシニ、同家ハ訓練生ノ来ルヲ知リ、逸早ク門ヲ閉メタル為、入門スルコトヲ得ズ、片言ノ満語(中国語のことですね)ニテ開門ヲ迫りタルニ、家人ガ大声ヲ発シタルニ依リ、部落民数名来集セルヲ以テ訓練生ハ其ノ場ヲ引揚ゲ、帰所後,他ノ訓練生ニ対シ自己ノ不当行為ハ之ヲ秘シ、部落民ヨリ不法ニ包囲セラレ、又ハ追跡セラレタル如ク吹聴セルヲ以テ之ヲ聞知シタル五十余名ノ訓練生等ハ報復センコトヲ企テ、小銃三挺、銃剣三挺、短刀、木剣、棍棒十数本ヲ用意シ、同夜九時半頃、私(ひそか)ニ訓練所ヲ出デ前記干方ニ到リ、実包数発ヲ威嚇的ニ発砲シ、閉扉セル門ヲ破壊シ、家屋内ニ侵入シ、戸、障子、其ノ他ノ器物ヲ破壊又ハ家人ヲ殴打シタル上、翌七日零時半頃帰所シ、
  (ロ〉更ニ前夜ノ暴行ヲ以テ満足セザルノミナラズ、其ノ際訓練生1名軽傷ヲ負タルタメ、翌七日早朝來、一部訓練生内ニ於テ更ニ襲撃ヲ為サンコトヲ企図シ、各訓練生ニ伝エタトコロ同意者九十七名ニ及ビタルヲ以テ、前回同様小銃三、銃剣三、短刀、木剣,棍棒等十数本ヲ用意シ、午前十時頃、三々五々訓練所ヲ立チ出デ部落ニ到着、二隊ニ分カレ、一組ハ二十里站、1組ハ二道溝及頭道溝(トウタオゴー)部落ニ侵入、小銃十数発ヲ発砲シ、部落民ヲ威嚇シ、約二十戸ニ侵入、戸、障子、家財道具数十点ヲ破壊シ、家禽、家畜類ヲ殺傷、其ノ他小道具、衣類、食糧品、小額の現金等数十点ヲ強奪シ、避難セントシタル部落民ヲ追跡シ、銃剣ニテ斬付ケ、棍棒ヲ以テ多数ノ人民ヲ殴打セル他、婦女子ニ短刀ヲ突キ付ケテ脅迫シ脱袴ヲ為サシムル(ズボンを脱がせるということですね)等ノ暴戻ナル行為ヲ為シ(つまり女性たちをレイプしたということです)、重傷者一、軽傷者五名ヲ出サシメ、強奪品ヲ所持シテ午後二時半頃、帰所シタルモノナリ」(丸括弧内は講演者。以下同じ)

  以上は「犯罪事実」の記録ですが、御覧のように、この後に、この事件に対する処置と、原因に対する所見が書かれています。これも読んでみましょう。

  「二、処置  県ヨリ警務科長以下十二名出動シテ検挙、司法事件トシテ捜査ヲ開始、一方宣撫と負傷者ノ治療ニ当ル。
  三、原因  訓練生ノ精神的弛緩、誤レル優越感、少年ノ面白半分ノ気分、度々部落ヨリ家畜ヲ窃取スルタメ,干延海等ガ不快ニ思ヒ、冷遇セルヲ侮辱セリト考ヘ、血気ニ逸リ本件ヲ及ブ。
  部落民ニ与ヘタル精神的影響ハ実ニ重大、元来開拓ハ元住民ノ土地買収、転住等相当深刻ナル犠牲ヲ彼等ニ与エ居ル際、斯(かか)ル非行ハ一層開拓民ニ対スル反感ヲ唆リ、開拓政策ニ対シ一大暗影ヲ投ジ、満人層ニ反満(反「満洲国」と言うことですね)反日的ナル一大底流ヲ作ルモノナリ」

  この中にも「元来開拓ハ元住民ノ土地買収、転住等相当深刻ナル犠牲ヲ彼等ニ与エ居ル際」と言っているように、「満洲国」政府の役人は、少なくとも「満洲国最高検察庁」の検事たちは「開拓」が決して開拓ではないことを、はっきり知っていたわけですね。また「満蒙開拓青少年義勇隊」の隊員による度重なる蛮行が「反満反日的ナル一大底流ヲ作ルモノ」であることも分かっていたわけですね。分かっていながら、外に向かっては、「開拓」と言い続けていたのです。
  ■「満人ハ轢殺シテモ差支ヘナシ」
  しかし、日常の生活においても、現地の中国農民に対して被害を加えていたのは、「血気ニハヤル」「青少年義勇隊」の隊員だけはなく、残念ながら普通の「移民団」の人たちも例外ではなかったことで、この「満洲国最高検察庁」の文書も、「第八章 青少年義勇隊ノ犯罪」に次いで一章を設け、「第九章 一般移民団ノ犯罪」として、やはり冒頭に「概説」を措き、そのあとに犯罪事例を列挙しています。まず「概説」から読んでみましょう。
 「本件モ殺人事件、傷害事件等、甚ダ多キヲ特色トス。又業務上過失致死モ、他ノ犯罪ニ比シテ甚ダ多シ。犯罪ノ原因ヲ通覧スルニ、満人ニ対スル優越感ニ依リ切捨御免ノ思想或ハ言語ノ通ゼザルコト等ヨリ発スルヲ見受ラル。業務上過失多キハ自動車運転ノ技術ヲ習得セザルニ不拘(かかわらず)無謀ノ運転ヲ為スニ起因ス。コレ亦満人ハ轢殺(ひきころ)シテモ差支へナシト思ヒ居ルニ非ラズヤト思ハルルハ遺憾ナリ」
  この部分では、中国東北の農民たちへの「優越感」の中身が、ズバリ「切捨御免ノ思想」であると明示しています。
この章でも数多くの注目すべき事例が挙げられていますが、そのうち二つだけ取り上げてみたいと思います。まず自動車による轢殺事件です。

  「罪名 業務上過失致死  XXXX  年齢 当三十年 所属団名 鶴立(ハーリー)県東
 海村開拓団(この「東海」というのは、日本の東海地方の東海です)
   犯罪事実の概要 被疑者ハ鶴立県東海村開拓団員ナルトコロ、康徳七年(一九四〇)四月七日。東海村三重分村付近ニ於テ37式フオード貨物自動車ヲ運転中、先行荷馬車ヲ追越ントシタルが、馬ノ狂奔ニ驚キテ自動車側ニ飛出シタル満人韓少先(ハン・シャオシエン)(十五)ヲ轢殺(れきさつ)シタリ。
   犯罪ノ原因動機 業務上必要ナル注意ヲ欠ク」

  この「37式フオード貨物自動車」というのは、一九三七年式のフォード社のトラックのことです。「おや外車?!」と思われるかも知れませんが、あの当時は、国産のトラックとしては日産などが作ってはいたものの性能が悪く、日中戦争で活躍した自動車部隊というのは、その実態は殆どが、このフォードのトラックでした。そこから考えても、日本が「大東亜戦争」に突入することは無謀なことでした。
  もう一つの事例は、強盗殺人です。読んで見ます。

  「罪名 強盗殺人 XXXX 年齢当二十五年 
  犯罪事実の概要 被疑者ハ第四次開拓団員ニシテ密山(ミーシャン)県城子河(チャンズーホー)ニ於テ農業ニ従事シ居タルモノナリシ処、康徳七年(一九四〇)五月十日、密山県密山県ヨリノ帰途、同所ヨリ鶏西(チーシー)屯ニ通ズル鶏冠山(チークワンシャン)中腹約二百米ノ旧道路上ニ於テ、同日午後五時頃、密山県永長(ヨンチャン)屯居住尹雅東(イン・ヤートン)所有ノ荷馬車ニ出逢ヒタルヲ以テ便乗シ、鶏西ニ向ヒ進行中ノ荷馬車ノ満洲馬1頭ヲ強奪セムコトヲ企テ、所携ノ護身用短刀(刃渡4寸)ヲ以テ突如傍ラニ同乗シ居タル尹雅東ノ右頚動脈ヲ切断シ、尹ヲ殺害シタル後、馬車夫陳忠礼(チェン・チョンリー)右肩先其ノ他数ケ所ニ斬リ付ケ、傷害ヲ与へ、前記馬一頭ヲ強奪シタルモノナリ。
  犯罪ノ原因動機 満洲ニ於テハ如何ナルコトヲ為スモ差支ヘナシトノ思想ニ基キ非道ノ欲望ヲ達ス」 

  本当に恥ずかしいことですね。こんなひどいことをやっていたから、関東軍が彼らを見捨てて主力を南部に移してしまった時、ほとんど年寄りと女子供になってしまった「開拓団」の人々は、こんどは自分たちが地獄の憂き目に遭うことになったのです。一般に「開拓団」の話になると、敗戦後の悲惨な逃避行だけがクローズアップされ、なぜそのような悲慘な逃避行になったのかという反省が乏しいですね。
  私の知り合いにYさんという佳木斯近くの移民村に「大陸の花嫁」として嫁ぎ、その悲惨な逃避行を経験し、生き延びて帰ってきた女性がいますが、彼女は夫が召集され、背中に幼子を背負って逃避行に参加し、途中、何度か暴徒化した農民に襲われたことがあったそうですが、その時、彼女は「私たち《開拓団》は中国人に、いろんな、とてもひどいことをしてきたから、殺されても仕方がないと思いながら歩いた」と回想しています。彼女はその逃避行で子供を失っていますが、彼女のように自分を、このよう客観的に見ている人は稀です。
  この本(『中国農民が証す「満洲開拓」の実相』)にも、レイプのことが出ています。「青少年義勇隊」の隊員が、正月に餅を売りに来た若い朝鮮人の女性を家の中に引き込んで輪姦したことや、「義勇隊」の訓練所の将校が白昼、夫の留守だった農家に押し入り、その妻を陵辱した事件が証言されています。その妻の場合は、その後、自殺しています。
  ヒロシマやナガサキの問題でも、日本人は被害ばかり言うが、加害については深く考えない傾向があります。アメリカによる原爆投下は、言うまでもなく、戦争犯罪であり、きびしく裁かれるべき問題です。しかし、それが少なくとも近隣諸国への一四年間に及ぶ侵略戦争の結果であることも事実です。
  北朝鮮の拉致問題でも、同樣で、日本人は自分たちの被害ばかり主張して、相手方にあたえた加害については、ダンマリを決めています。拉致は、もちろん、許されるべきことではありません。私はこれまで平和運動や学術交流で北朝鮮には六回ほど行っています。もっとも、この一〇年くらいは行っていませんが、その経験からいいますと、彼らは、心のなかで、こう考えていると思います。「日本は一人のメグミちゃんで大騒ぎしているが、こちらには何千何万のメグミちゃんがいる」と。
  私の考えをいえば、拉致問題の解決は簡単なことです。鳩山さんが平壌に出かけて行って、小泉さんのように一泊もせずに帰ってくるのでなしに、クリントンさんさえ一泊したのですだから一泊とは言わず、二泊も三泊もして、まず戦時中に日本が沢山の住民を拉致連行したことをふくめて、少なくても三五年間に及んだ植民地的支配に対して深く謝罪し、それ相応の補償を行なうことをはっきり言明し、約束したら、拉致問題は一挙に解決すると思います。鳩山さんが「友愛政治」を言うなら、そこまでやらなくては「友愛」とはいえないでしょうし、「東アジア共同体」の実現を本当に考えているなら、まずそれをすることが追い風になるでしょう。

  ■むすび
 「満洲移民」とは、一言でいえば、当初はソ連侵攻をめざした関東軍の補完武力勢力ならびに食料基地として、のちには「満洲国」を支える日本人の組織として関東軍によって始められ、その武力によって維持された「侵略移民」でした。だから、関東軍が崩壊するとともに、消え去りました。もし「満洲移民」が平和的な手段で進められ、本当に「開拓」を行い、現地中国農民との間に友好的な関係を作り上げていたら、「満洲国」とともに消え去ることはなかったでしょう。実際、「侵略移民」ながら、現地の中国農民との間に友好的な関係を築くことができたところでは、暴徒化した民衆から守られています。
  しかし、上さんも言っているように、「満洲移民」に組織され、動員された人々は根源的には犠牲者でした。彼らはもともと全体として日本国内で、きびしい生活難に喘いでいた貧しい小作人であり、失業者でした。ところが、彼らは「満洲」では、やはり全体として関東軍の武力に依存し、あるいは荷担して、現地の貧しい人々に対する加害者となり、敗戦後に再び被害者になりました。
  これは、言ってみれば、現代格差社会の象徴的な出来事といわなくてはならないでしょう。イラク戦争でも、その最前線でイラク人を殺し、あるいはイラク人のテロで命を落としているアメリカ兵は、もとはいえば、食うために、あるいは出世するために戦場に赴いた貧しい青年たちだということです。
  「満洲開拓」が現代にあたえる最大の教訓は、この格差社会では、貧しい人々が、まやかしの「国家の正義」にからめとられて、他国の貧しい人々の加害者となり、また被害者となることだと思います。


  【付記】以上は、二〇〇九年一〇月三日、現代女性文化研究所で「《満洲開拓》を中国現地農民からみると」と題して行なった講演速記録の一部に加筆したもの。

「日の丸」はアヘンの商標?

■石川逸子『日本軍「慰安婦」にされた少女たち』岩波ジュニア新書、2013年

頁130――

 もし日本の少女たちを1枚の紙片で連行したならば、かならずや兵士たちははげしく動揺し、「聖戦」に疑問をいだいたにちがいない。長年にわたってつちかわれたアジア民族への蔑視観と、公娼制度による娼妓たちへの差別観が、「慰安所」での強かん、輪かんを可能にしているのであったから。
 そしてまた、大日本帝国にとって、大人の男は死に追いやっても、その「種」である大和民族の子どもはどんどん「再生産」されねばならなかったが、朝鮮民族は「民族抹殺」してもかまわず、むしろ「民族抹殺」がねらわれていたと思われる。
 「朝鮮の若い女をみんなかきあつめて慰安婦にし、朝鮮民族の種を絶滅させるのだ」と公言した日本の軍人もあったという。
 金一勉(キム・イルミョン)さんは、日本は朝鮮にアヘンを密輸入し、公娼制度、トバクももちこみ、はやくから朝鮮民族を滅ぼそうとしていたのだ、と指摘している。
 また、尹貞玉(ユン・ジョンオク)さんは日本の女性は「慰安婦」にこそされなかったが、「皇軍である天皇の赤子を生むべき「赤子生産器」にされた」のだと。
 たしかに朝鮮の娘たちがぞくぞく「慰安所」へ送られてレイプされ、子を産めないからだにされているころ、日本では「産めよ、ふやせよ」が国策としてすすめられていた。


頁132――

 そして、北朝鮮のもと「慰安婦」金英実(キム・ヨンシル)さんの証言によれば、「慰安所」では朝鮮語を使うと殺す、といわれていた。しきり1つへだてたとなりの部屋には「トキコ」という同胞の少女がいたが、ある日、軍人が「出てこーい」とどなり、みんなが部屋から出ていくと、トキコを軍人がすわらせていて「トキコは朝鮮語を使っていたから殺す」といった。まさか、おどしだろうと思ったが、軍人はその場でトキコの首を切りおとしたという。
 日本軍「慰安婦」は、天皇が「赤子」である「皇軍」将兵におろす「下賜品」であり、民族抹殺が政策的に計画されていた植民地の「消耗品」であって、人間とはみなされていなかったのだ、という尹貞玉さんの指摘を重くうけとめたい。



■江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書、1988年 

頁179──

日の丸はアヘンの商標

 日本のアヘン・麻薬政策の最末端の状況・光景をいくつかみておこう。
 東京裁判に検察側書証として提出された上海在住アメリカ財務官の報告は、満州事変下の満鉄沿線地帯の状況について、
    支那人経営の各アヘン店は蒙るかもしれない難儀にたいする用心棒として、日給2円および(ママ)3円で、少なくとも1人ないし2人の日本人または朝鮮人を雇わねばならない。こうすることによって、これらの店は日章旗を掲げる権利を与えられる。
と述べている。
 日章旗の掲揚はアヘンの販売が日本側によって公認されていることの標識であった。このことから日本側にしてみれば、とんだ勘違いが生じた。関東軍総参謀副長から敗戦直前に内閣綜合計画局長官となった陸軍中将池田純久は『陸軍葬儀委員長』(1953年)のなかで、つぎのように書いている。
  
     [支那]事変当時、日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事しているものが多かった。かれらは治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。時々日本の国旗陵辱事件がおこり外交問題に発展することがあったが、よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。  
     戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて、「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。
     とにかく日本人のアヘン密売者は中国人から蛇蝎の如く恐れられていた。
 
 故黒羽清隆氏は『15年戦争史序説』(1979年)で、この池田の記述を引用し、「これほどにきびしい『日の丸』論を私は知らない」と書いたが、同感というほかない。



「日の丸」はアヘンの商標?

https://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/5997144.html


 今回は宗教の話ではなく、「アヘン大国だったこの国」の話です。これについては、「二反長半」と「星新一」に関連して正月の朝日新聞に載りました。

▼1999/1/4/、朝日新聞「百年のこと」<家族写真>3より

(二反長音蔵は・・・)
 大阪府福井村(現茨木市)に生まれた。上京して、薬用アヘンの国産化を要人に働きかけた。自宅の畑はケシ試験園とされ、収穫はすべて政府が買い取った。山林を切り売りしてまでケシの普及に打ち込んだ。
 
 満州事変後の34年(昭和9年)には旧満州にわたり、ケシの栽培指導をしている。
   
当時、ジュネーブ国際アヘン会議で活動した宮島幹之助氏が出版した報告が残されている。32年、世界のヘロインの55%、コカインの23%、モルヒネの12.7%を、日本が生産していた。

 日本は中国に大量のアヘンを流し込んだ。巨利を生み、反日運動の機運をそぐ「毒化政策」だった。

 密売人たちは大陸奥地で、「治外法権」を示す日の丸を掲げた。池田純久・元陸軍中将の著書には、「日本国旗に対する陵辱事件が時折起こった。よく調べてみると、中国人は日の丸を国旗とは知らず、アヘンの商標と思っていた」とある。
 
 今世紀前半の一時期、この国は世界一の麻薬大国だった。

 (中略)

 半さんは文献を集めた。毒化政策を裏付ける記述を見つけるたびに胸がうずいた。 ・・・

 遺作は、44年間に及ぶ文筆生活で異色のものとなった。軍部のアヘン政策を告発し、父の役割を「阿片王の名のもとに(軍部の)いっぽうの片棒をかつがされていた」と断罪した。


 音蔵の生アヘンを払い下げられた実業家の星一は、モルヒネを製造、星製薬は急成長する。

 「アヘン王」の音蔵に対して、「製薬王」と呼ばれた。
 
星の息子も、作家になった。「星新一」と名乗った。

 父の伝記『人民は弱し官吏は強し』は、作品群中、やはり異色とされる。

 官僚の腐敗を批判し、アヘン密輸の嫌疑をかけられた父(後に無罪)を弁護した。この著作に対し半さんは、星製薬と台湾総督府との癒着に触れていないと批判した。

 ベストセラー作家の手になる伝記に、父の盟友だったはずの「アヘン王」は登場しない。
(引用終わり)
*******************************

  麻薬といえばCIA、テロ国家アメリカの仕掛ける紛争地と麻薬地帯は同時に移動するという。中米→東南アジア→アフガンとなり、今、アフガンは麻薬大国だという。タリバンが麻薬をかなり減らしたが、CIAとつながりがあるカルザイがお出ましになり、又以前(注:1960年代~1970年代初期)の麻薬大国に逆戻りだとさ。
 
 で、戦前の麻薬大国のトラウマで、日本の医療現場での麻薬使用量が極端に少ないのかどうか定かではないが、確かに数年前まで、がん患者の激痛は放っておかれたのだ。もちろん、先進医療の現場ではちゃんと緩和医療はなされていたのかもしれないが、少なくとも私の経験では医師も看護師も麻薬使用には消極的だった。一昨年あたりからNHKのがん特集で、その当たりが重点的に取り上げられ、今ではかなり改善されたのかもしれない。

 さて、アヘンと「日の丸」が結びつくなど、日本人のほとんど誰もが思いつかないかもしれないが、アヘン中毒にさせられた中国人には、それはまさしくアヘンの旗なのである。その体験が“口伝え”で子孫に語り継がれていれば、今翻る「日の丸」もまたアヘンの旗なのである。

 沖縄の民衆の記憶が、文科省の歴史修正の策動に明確な反撃を示したように、“口伝え”の記憶を私たちは甘く見てはいけない。アジアの抗議活動をただの「反日」と呼ぶなら、沖縄の抗議の大集会も「反日」行動となる。
 
 答えは明白である。あの当時の皇軍の行状に真っ向から反対するのが「反日」なのである。

 「祖父の一族は皆、殺されたか行方不明だ」の意味は分かりますか?

 もちろん、そういう事例は無数にあるでしょう。侵略戦争の戦場になるというのはそういう事なのです。

 そういえば日本には「中国は日本への批判ばかりでアヘン戦争のことを言わない」なんて墓穴を掘るようなことを言う人がいますが、戦前の日本は世界一麻薬大国で、それを中国国民に売って大もうけしたわけですから、英国と目くそ鼻くそです。

 「日の丸」は相次ぐ日本帝国の戦争の勝利によって深く日本人の脳裏に誇らしげに刻み込まれたが、アジア人にとってそれはタダの忌まわしい旗だったのである。
 
 だからこそ戦後、旗も歌も変えておくべきだったのだ。

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