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辺見庸Ⅳ―わたしの気になる人⑭

辺見庸Ⅳ―わたしの気になる人⑭

     辺見庸が地下鉄サリン事件の被害者を救助した体験に、わたしは心から注目したい。単に美談としてではない。1995年3月20日、東京の神谷町駅でのことだ。ほとんどの通勤客は、被害者たちをまたぐようにして職場へ急いだ。辺見庸も通勤客の1人だった。共同通信社の外信部に勤務していた。
     また、辺見庸は、1991年1月に「自動起床装置」で芥川賞を受賞した作家だ。

     辺見庸には、『反逆する風景』(鉄筆文庫)という随筆集がある。2014年10月に刊行された。あらたに、書き下ろしの「花陰」と「遺書」が加わっている。同名の単行本とその文庫が講談社から刊行され、すでに10数年が経過しているが、収録の作品41点はちっとも色あせていない。ふかい感動と共鳴をよぶ。なかでも「飢渇のなかの聖なる顔」に、わたしはいちばんに注目したい。
     地下鉄サリン事件の前年8月に発表された。事件での救助体験・行動をもって、この作品「飢渇のなかの聖なる顔」を照射すれば、辺見庸の、人としての後ろめたい心情など、より鮮明になってくるのではないか。文学的な秀作だと思う。
     1992年暮れから、辺見庸は外国を取材旅行する。翌年に各新聞に連載される「もの食う人びと」を執筆するためだ。食べるのに困っている人たちと多く出会い、彼らといっしょに同じ物を食べながら、彼らのドラマを聴いて歩くのだった。
    取材旅行の途次で、辺見庸は2人の死にゆく女性と出会う。1993年夏、東アフリカでのこと。14歳の避難民と22歳のエイズ患者。2人の「高貴な」「美しい」顔は、その後、辺見庸のからだのなかに埋めこまれているという。そのときの風景を描く辺見庸のふでは、じつにリアルだ。それと同時に、辺見庸のくるしい胸の内が、痛切に伝わってくる。
     避難民の女性は、収容施設にしゃがみこんでいた。枯れ枝のようだ。まなざしは苦海を凝視していた。ただ、飢えのすえ死ぬためにだけ生きている。恐怖に凍えて発声も身動きもならない。辺見庸は、「この娘こそが世界の密やかな中心でなければならない」と思う。しかし、「じつにじつにただの傍観者として、その場を無責任にあとにした」のだった。
     エイズ患者の女性も、針金のようだ。余命いくばくもない。お金がないから病院に行けない。自宅の暗がりに身を横たえていた。しかし、「人を真実思いやるのではなく、なにか聞きだすことをすべてに優先させている」「罪深い」自分に、辺見庸は気づくのだった。
     帰国してからも、飲み屋のカウンターに伏しては、彼女たちの「死の意味」と、人としていかに「卑怯な」「醜い」自分について考えこむ。夜半に鏡を見ては、飽食の顔は美しくはない。たらふく食べられるこの国には「精神の飢餓」が広がっている、と思うのだった。
     辺見庸は、死にゆく人間の極限でのありさまに直面した。鮮烈な衝撃をうけた。ジャーナリストならではの得がたい体験にはちがいない。しかし、そのとき、辺見庸は「自責の念」などの心情をいだくのだった。心の波紋。葛藤。反省。その心情のさまは、辺見庸の人としての真率なものにちがいない。
     そして、翌々年3月、辺見庸は、サリン被害者を救助したのだ。知らんぷりだってできる。しかし、卑怯なことはしなかった。
     その間の辺見庸の心情を推察すれば、そこには、人としての、弱者へのまなざしと貧者の側に立つ視座がある。身をかがめる姿勢もある。作家としての内的衝迫の源泉もある。それは、2018年10月に刊行された、長編小説『月』(KADOKAWA)にまで一貫するものであろう。

     鉄筆文庫の収録作品41点のなかで、つぎに注目したいのは「反逆する風景」だ。3つの話のうち、とりわけ「第一話」がつよく胸を打つ。1994年11月に発表された。そこに書かれた、辺見庸の衝撃体験を知ってみれば、先述した辺見庸の心情は、全体像も、さらに厚みと深みが加わるのではないか。
     1987年、共同通信社北京支局の記者だった辺見庸は、中国当局から国外退去の処分を食らう。「国家機密を不当な手段で窃取した」という理由で。外務省の役人が辺見庸に「ある記事の情報源の名前を明かせ」とせまる。「絶対にいえないよ」。情報秘匿という記者の鉄則よりも、「いえばいったという事実でその瞬間から」自分を「蝕む」と感じたし、それは「未来永劫不快だろう」と予感したから、と辺見庸はいう。
     中国当局は「じつにしつこく」尾行する。街路樹の陰から路地の角からつぎつぎに男たちが飛びだしてくる。ガタガタ身震いして歩く辺見庸たちに伴走してくる。一目散に逃げた。停まっていたカメラマンの車にとび乗った。車が3台も追いかけてくる。
     しかし辺見庸は、当局に情報源を明かさなかった。自分をつらぬくのだった。国外退去になる。
     辺見庸は、こんなにも、おっそろしい思いを体験しているのである。外国の地で。43歳のころに。体験は人や心情や思想を形成するものだと思う。この作家はどのように誕生したのか。わたしは、作品を読みながら、一方で、作家の土壌や人生も知りたくなるのだ。

     辺見庸の、文章の魅力の背後にある体験、心情をたぐりよせてみたが、鉄筆文庫の主なテーマは、表題どおり、「風景はかならず意味に反逆する」ということだ。
     辺見庸が何度か情報源を拒否したあと、中国のわかい役人がポケットから写真を取りだした。逮捕状か。恐怖で辺見庸は目がかすむ。しかし、役人の2歳の子どもの写真だった。
     情報源を明かさぬという文脈のなかで、役人のその行為の意図は、どこにあるのか。辺見庸は何回も考えたけれど、わからない。最近は「整合しないことってままある」のだ。ただ単に子どもの写真を見せたくなったのかもしれないとも、考えているという。
     この不整合を、文章のなかにとりこむべきか否か。「絶対に盛りこまなければならない。」「意味のぼこりと陥落した風景があってこそ、風景はやっとそれなりのおもしろい立体的全体になりうるからだ」と、辺見庸は主張するのである。
     常識を蹴飛ばすような、反逆する風景の具体例は、「第二話」にも「第三話」にも書かれている。たしかにおもしろい。「新聞人」は、反逆する風景の細部を切って捨ててしまう。書かない。もっともらしい意味をとりつくろう。おなじ「新聞人の端くれ」の自分としては、それは不満だと、辺見庸はいう。

     収録作品「見えざる暗黒物質を追え」にも、注目したい。1994年10月に発表された。辺見庸は、女子中学生の手紙に応えている。彼女は、世の中に起きている「たいせつなこと」は、新聞の紙面には見つけがたい。裏にひっそり隠れている。「なぜ」起きるのかも、紙面から伝わってこない、と書く。
     では、一体どうすれば、見えざる大事なことを読者に伝えられるのか。「新聞人」はもっと不可視の実在について語れ、と辺見庸はいう。名もない人たちの嘆きと喜びの詳細を、データによらず、「生の風景」に分けいって書きぬく、技量と気迫と眼力をもて、とも。「新聞人」への訴えは、辺見庸の自己確認でもあろう。

     「遺書」は、鉄筆文庫の書き下ろしの1点だ。2014年9月27日の執筆。辺見庸の誕生日である。辺見庸は、1996年に共同通信社を退社してから作家活動に専念する。こしかたをふりかえり、辺見庸は、「いまはとことんつまらなく、くだらなくおもわれてならない」という。「風景はなぜ、こんなにもことごとにわざとらしいのだろう。」「なぜ存在は芯をなくしたのだろう。」「はっきりしているのは、ことばが損傷をきたしていることだ。」「主体がことばからはなれ、ますます乖離してしまった。」これまで、文と言葉との格闘を真摯にかさねてきた辺見庸は、嘆くのである。憤るのである。
     辺見庸はさらにふりかえり、わが人生は「つまらない人生ではあった」という。そうだろうか。起伏に富んだ激しい人生ではなかったか。
     そして高齢のいまこそ、一段とかがやいている。辺見庸は、小説、評論、随筆、詩と、さまざまなジャンルに挑戦する。個性あざやかな作家だと、わたしは思う。
     「さはやかジム」でのリハビリテーションがつづくかぎり、執筆はつづくにちがいない。

     (拙文「テレビ出演した辺見庸」を、「リハビリ日記Ⅲ⑰⑱ちきゅう座」http://chikyuza.net/archives/91468 で読んでみてください。)

    〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
    〔culture0801:190530〕

〔週刊 本の発見〕『ここからセクハラ!ーアウトがわからない男、もう我慢しない女』

毎木曜掲載・第87回(2018/12/13)

セクハラオヤジを徹底的に分析

●『ここからセクハラ!—アウトがわからない男、もう我慢しない女』(牟田和恵、集英社)/評者:渡辺照子

http://www.labornetjp.org/news/2018/1213hon

 今年の流行語大賞のひとつに「#MeToo」が選ばれた。性被害やセクシュアルハラスメントにあった当事者が声をあげ、それに連なる人々の意思を表すポジティブな言葉だ。思えば平成最初の流行語は「セクシュアルハラスメント」だった。私は天皇制反対論者だし、元号に格別の感慨を持つ者ではないが、30年も経って、いまだにこの問題がはびこっていること、被害者が声を上げることの難しさを思うと暗澹たる思いだ。

 毎週のようにセクシュアルハラスメントをテーマとした集会やシンポジウムが開催されているが、「日本では海外のように盛り上がらない」と言われてしまっている。セクシュアルハラスメント問題の当事者、中心になって果敢に活動する女性のせいではないのにその女性たちに責任があると語られているようで、その筋違いの「批判」は、セクハラ問題の二次被害の一種だと思えて仕方がない。要因は明らかだ。男性の側に当事者意識が希薄なせいだ。なんでも海外が良いという「ではの守(かみ)」になるつもりはないが、例えばイタリアでは「これ以上共犯者にならない」スペインでは「沈黙して共犯者になるのはもうやめだ」という運動のスローガンが男性の側から発信されていると本書で紹介されている。ところが、社会的に発信力が女性よりはあるはずの男性からの声が、日本では何ら発せられないことが、何よりの証左ではないか、残念だが。

 それに流行語大賞まで受賞しながらも、盛んにイベントが開催されながらも、出版状況がそれに呼応していない。出版業界は文化事業であるが、それ以前にビジネスだ。旬のネタであり、売れるとあれば二番煎じでも柳の下のドジョウでも刊行するはずだが、驚くほどセクハラをテーマにした書籍の近著が少ない、というより皆無ではないだろうか。私が推測するに「セクハラネタは騒がれるほどには売れない」との上層部の判断があるのではないだろうか。恐らく、その「上層部」には男性原理が働いているのかもしれない。しかし、売るべきなのだ、読むべきなのだ。書評で「読むべし」と主張するほど無粋なことはないのをわかって、今回はそれを言わせてもらう。

 各章のフレーズがどれもキャッチ―だ。「『美人だね』の何が悪い?」「天気の話しかできないじゃないか!」等、セクハラオヤジ(とあえて言う)の言い草を具体的に取り上げ、徹底的に分析・反論している。セクハラ発言の背後には、男性の支配欲があるという。会社で「出世」すると周囲から迎合され、相手の内心に配慮しなくなるのだ。一頃流行った「忖度」。あれはあくまで目下が目上におもねる片務的な行為だ。それを偉くなった男性は、目下の「女性」「部下」にはしなくなる。牟田さんは「空気を読むことに長けている日本のビジネスマンがなぜ部下の顔色を読まないのか」と鋭く指摘しているが、「上には媚びる、下には威張る、見下げる」のがお得意な「日本のビジネスマン」(と、あえて偏見に満ちた言い方をさせてもらおう。)だから、当然のことなのだ。

 女性を性の商品価値の有無でしか評価しない、対等なビジネスパートナーとみなさないから、相手の容姿か若さにしか共通のテーマを見出せない貧困な発想なのだと、私なら一刀両断したくなる。だが、牟田さんは実に粘り強く、微に入り細に穿って懇切丁寧に「男性の側に立って」セクハラのおかしさを説明してくれている。  一方で、女性たちがいかにセクハラの加害者の男性から、その行為を受けながらも、相手のプライドを傷付けずに回避し、サバイバルしているかの具体的なケースを列挙している。「あるある!よくぞ言って下さった!」という女性たちの最高レベルの共感を得るだろう。その記述を男性はいかにとらえるか、感想を聴きたいものだ。

 最後にまたもや野暮を承知で言わせてほしい。「一人でも多くの男性、企業、団体、必携の書、必読の書だ」と。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。

〔週刊 本の発見〕『82年生まれ、キム・ジヨン』

毎木曜掲載・第108回(2019/5/9)

女性としての「あるある」エピソード



『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ、筑摩書房)/評者:渡辺照子

http://www.labornetjp.org/news/2019/0509hon


 この本は「主人公を診察する精神科医のカルテという体裁で彼女の半生を回顧していく構成」ということになっているが、それだけだと思っていると最後に「あっ!」と思わされる。

 主人公の名前は1982年生まれの女性の最も多いものだそうだ。漢字で表記すると「金智英」くらいな感じになるらしい。彼女が生まれた年は韓国で夜間外出禁止令が解かれた日であり、5年後の1987年は民主化宣言が発表され、政府と国民の関係性が変化し、女性政策の基盤となった。そんな時代背景もあるかもしれない。主人公の設定年齢は33歳。大学を卒業し、結婚、出産を経て、嫌でも「自分の人生は何だったのか」と思わざるを得ない節目の年齢であることは日本でもそう変わらない。

 子どもの頃からの女性としての「経験」は、日本の女性にとってもほとんど同じだ。その「あるある」エピソードのオンパレードで、私はページをめくりながら何度「そうだ、そうだ」とうなずいたことか。

 主人公が小学生の頃、男子にいじめられたことを教師に言いつけたら「あなたが好きだからいじめるのだ」と企業のセクハラを訴えた時の二次被害のようなことを言われた経験。男女混合名簿ではなく男子が先に明記されていることでの女子の不利な状況や、学級委員は男子ばかりであること。中学生になるとがんじがらめの校則に苦しみ、通勤途上のバスの中では痴漢にあい、性犯罪に合うと被害者の女性の方が責められ、男子教師からはセクハラに合い、バイト先では雇用主やお客からセクハラを受け、ストーカーまでされる始末。

 なんとか進学した大学キャンパスでは女性に理解あると思ってた男性の先輩が陰では女性蔑視をしていたことがわかり愕然とし、女性が加入できないサークルがあり。女性の手柄を横取りするのも日本と同じ。家庭では不動産投資に敏い母親の功績を自分のものと勘違いする父親がおり、職場での横取りは言うに及ばず。(*写真右=著者 CINRA.NETより)

 男女平等の法令が制定されても、実態は変わらず、女性の職業の選択肢は限られ、就職の面接では「セクハラにあったらどう対処するか」というセクハラ面接があり、接待の宴席もこれまた取引先のオヤジからセクハラを受け、男性社員には有利な仕事が提供され、等々。「同じだ、日本と同じだ」と、私はもげそうなくらいにまたもや首の上下運動が止まらなかった。

 OECD諸国の中で男女の賃金格差は日本よりもひどいのだ。その中で奮闘する韓国の女性たちにハグをしたいと強く思った。もっともっと腹が立ち、怒りを共感できるオヤジ社会の実例が登場するのだが、文字数の関係でこれ以上明記するのは我慢する。

 ただ日本と違うのは、他の女性からの救いの手があることだ。通学のバスの中で性的に侮蔑された時に「あなたは悪くない」と見知らぬ女性から声をかけてもらったり、職場では先輩女性から励ましと援助を受けたり。そこは女々格差と分断が成功してしまった日本とは違う。

 次のシーンは最高に泣かせる。彼女が仕事を辞めて育児に専念せざるを得なくなった時に、夫が「理解」を示し「僕も手伝う」との言葉に彼女は切れたのだ。「その『手伝う』ってのちょっとやめてくれる?(中略)子どもだってあなたの子じゃないの?」日本の「子育てママ」も、こうやってブチ切れているよね、きっと。

 冒頭では、主人公が自分の身の回りの他の女性たちが乗り移ったような言動をすることに目を引かれた。強いしストレスを受けた時になる解離性同一障害、つまり多重人格になってしまうのだが、私には女性がライフイベントの度に強い性規範や性別役割分業によってそれまでの自分を喪失させ、他の人格に成り代わることを強制されることの比喩だと感じた。実際、作中で主人公は出産のために失うものが女性にばかり偏ることの矛盾を訴えている。女性は常にアイデンティティクライシスの危機に瀕しているのだ。

 主人公の夫以外の男性には氏名が冠されていない。これは意図的なものだ。常に女性は固有名詞を与えられてこなかった。それを作中では男女逆転させている。巧みな復讐と言えよう。しかし、私はそれによる描写を全く不自然には思わなかった。多くの男性はそのジェンダーによって下駄を履かせられ社会的に優位になることで、女性ほどには内省や葛藤なくして生きられる個性のない人格となってしまっているからだ。そんな「男性」に名前はいらない。

 インパクトある表紙にも言及したい。主人公にも思える女性の顔が大きく描かれているが、肝心の風貌は空白だ。特定の顔を描くより空白にすることで、誰でもあてはまる普遍的な女性の在り方を訴えたかったのかもしれない。代わりに風景が顔の中にある。その風景は荒涼とした砂漠のようであり、木にも葉は茂っていない。遠くにそびえる山は、はげ山だ。だが、草々が少しだけ生えている。「日々辛いことばかりなようだけれど、それだけでもないよ。少し目を凝らして足元を見ると良いこともあるよ。」と言ってくれているような気もする。

 韓国では啓蒙書として男性国会議員が300冊も購入して全ての国会議員に手紙と共に贈呈したそうだ。日本でも読書会がさかんに開催されている。

 最後に、男性の精神科医の言葉が私にはショックだったが、それはまぎれもなく私たちの現実そのものでもある。そのショックな言葉が何なのかはここでは書かない。知りたければページもめくってみて下さいね。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。

[特派員コラム]『82年生まれ、キム・ジヨン』と『さよならミニスカート』

[特派員コラム]『82年生まれ、キム・ジヨン』と『さよならミニスカート』

登録:2019-03-21 21:38 修正:2019-03-22 07:14
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/33071.html                              


『82年生まれ、キム・ジヨン』日本版//ハンギョレ新聞社

 時々立ち寄る町の書店がある。雑誌、旅行、スポーツのような趣味関連の書籍、そしてベストセラーを中心に陳列してある平凡な書店だ。大衆的に売れないような本は目につかない書店だ。ところが、最近の韓国小説『82年生まれキム・ジヨン』が平台の最もよく見える所に置かれていた。町の書店で韓国本を見たこと自体が個人的には初めての経験だった。『82年生まれキム・ジヨン』は昨年12月に日本の出版社の筑摩書房から翻訳出版され、今までに9万部ほどが発行された。100万部以上売れたという韓国に比較すれば少ないものの、日本で発刊された韓国小説としては異例の発行部数だ。日本でも『土地』のような代表的韓国文学作品は翻訳紹介されているが、大衆的な注目をあびたものは多くなかった。ある日本の出版関係者は「日本人著者であっても著名な著者でなければ不可能な水準の販売量だ。日本でほとんど知られていない著者の本という点を考慮すれば相当な部数」だと話した。

 著者チョ・ナムジュさんは先月19日、日本最大の書店である東京の紀伊国屋書店で開かれた記者会見にも参加した。チョさんは『82年生まれ、キム・ジヨン』の日本国内での人気に「驚いた」として「日本の読者たちが、小説を読んで自身も似たような経験をしたという話をSNSやインターネットに多く上げた。韓国と日本の社会の雰囲気が似ている点があり、日本の読者も共感できたようだ」と話した。筑摩書房の記者会見の後、日本の読者を対象にした有料行事を行った。芥川賞受賞作家、川上未映子とのトークショーだった。筑摩書房はこの行事のために座席を400席用意したが、受付数日目で売り切れた。行事場所の外で映像で行事内容を見ることのできる簡易座席50席も追加で用意したが、それも満席だった。

 『82年生まれ、キム・ジヨン』が日本で人気を呼ぶ背景には、韓国と日本が同じように抱えている苦々しい現実がある。女性に対して抑圧的な社会的雰囲気が似ている。国際機関が出す性平等関連の各種統計を見れば、韓国と日本は同じように下位圏を低迷している。国際議員連盟(IPU)が集計した1月基準の女性議員比率は、193カ国中で韓国が121位、日本165位(衆議院基準)だ。昨年、世界経済フォーラム(WEF)が発表した「2018年世界ジェンダー格差報告書」で、韓国は全体149カ国中の115位であり日本は110位だった。優劣を問うことに格別の意味がないほど、両国とも下位圏だ。

チョ・ギウォン東京特派員//ハンギョレ新聞社

 反対に、最近日本で話題になった漫画『さよならミニスカート』が提起する問題意識も、韓国に舞台を移してもおかしくはない。少女漫画雑誌「りぼん」に連載されているこの漫画の主人公は、アイドルとして活動した経歴を隠して生活する高校生の神山仁那だ。ファンを自認する男性に襲撃を受け、傷を負った後にアイドル活動を止めた。神山は髪を男のように短く切りスカートははかない。いつもズボンをはいている。「女性性を利用して金を儲けたので、怨恨を買うこともありうる」という周囲の反応に傷を負ったためだ。スカートを好んではく同級生がセクハラにあったことに対して、周囲の男たちがスカートをはいたからだと話し、神山が吐きだしたセリフが有名だ。「スカートはお前たちのような男のためにはくわけじゃない」。セリフ自体は当然の話だ。スカートをはこうがはくまいが、本人の自由で他人が口出しすることではない。だが、女性性、そして男性性を誇張して強調する社会では、このセリフは当然でないのが現実だ。

チョ・ギウォン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/886874.html韓国語原文入力:2019-03-21 19:15
訳J.S

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