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総理大臣・安倍晋三の仕事始めは、政教分離違反の違憲行為から

ちきゅう座

総理大臣・安倍晋三の仕事始めは、政教分離違反の違憲行為から

    例年、総理大臣・安倍晋三の仕事始めは伊勢神宮参拝からである。今年も例外ではない。ゴルフ休み明けの伊勢神宮。総理大臣が特定の宗教施設に公然と参拝する。東京在住の安倍晋三が町内の神社に初詣するのとはわけが違う。天皇の祖先神を祀るとされている神宮に、わざわざ公費で出かけるのだ。もちろん、違憲。

    いささかなりとも憲法感覚の持ち合わせがあれば、やるべきことではない。メディアも世論ももっと敏感に、安倍を批判しなければならない。立憲民主党も、国民民主も真似をせぬ方がよい。政権を担ったら、絶対やってはいけない。

    わが国の政教分離とは、権力と神道との危険な癒着を厚い壁で隔てることを言う。ここで言う神道とは、天皇を神にまつりあげた国家神道の基礎となった宗教をいう。国家が再び天皇を神とし、神なる天皇というこの上なく重宝な政治的道具を利用させぬための歯止めである。

    そのような意味で、憲法の政教分離規定が最も警戒する宗教施設が二つある。1番が伊勢神宮で、2番が靖国神社である。伊勢は天皇の祖先神を祀るのだから、天皇の政治的利用を嫌う憲法の立場からは、政教分離と言えば、まずは政権と伊勢神宮との関係を問題とする。この両者を隔絶しなければならないのに、何と無神経な安倍晋三。

    そして2番目の靖国神社は、皇軍将兵の戦没者を神として祀る軍事的宗教施設である。これも天皇の神社だが、なによりも軍国主義の精神的主柱とそれた。だから、皇軍の侵略を受け、あるいは植民地化された近隣諸国の目は厳しい。靖国に首相や天皇の参拝あれば、厳しい外圧を覚悟しなければならない。

    伊勢への首相の参拝は、外圧は小さいが、これこそ厳格な政教分離の対象なのだ。私は毎年このことを指摘してきた。最近のものは下記のURLでお読みいただけたら、ありがたい。

    総理大臣・安倍晋三の仕事始めは伊勢神宮参拝から
    http://article9.jp/wordpress/?p=11847   (2019年1月5日)

    伊勢神宮での内閣総理大臣年頭記者会見
    http://article9.jp/wordpress/?p=7939 (2017年1月5日)

    新年の伊勢神宮「公式参拝」、そこで首相が祈願したこと
    http://article9.jp/wordpress/?p=6176  (2016年1月6日)

    今年は天皇交替で元号変更後の新年だが、今年の伊勢での安倍晋三年頭記者会見は精彩がない。批判をするにも面白みに欠ける。そこで、衆議院のホームページに掲載されていたこんな質問主意書と答弁書を取りあげたい。

    2018年1月22日提出の質問趣意書。提出者は立民の逢坂誠二議員。表題が「安倍総理の伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問主意書」というもの。

    「平成三十(2018)年一月四日、首相官邸のLINEの公式アカウントで安倍総理は、「安倍晋三です。伊勢神宮に向かう道中、新幹線から美しい富士山が見えました」(「本発言」という。)と発信している。
    静粛な環境の下、歴代の総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながるものと考える。
    このような観点から、以下質問する。

    一 歴代の総理大臣が年頭にあたり宗教施設である伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えているのか。政府の見解如何。
    二 本発言が発信されることで、伊勢神宮への参拝者が増加し、特定の宗教施設の活動を援助、助長、促進するものではないのか。政府の見解如何。
    三 本発言をLINEで発信することは、「昭和四六(行ツ)六九 行政処分取消等」(最高裁判所大法廷判決 昭和五十二年七月十三日)でいうところの、「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に該当し、日本国憲法第二十条に反するのではないか。政府の見解如何。
    四 静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を事前に、首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながり、不適切ではないか。政府の見解如何。

    逢坂議員の人柄については、予てから信頼に足りる政治家という好印象が強い。しかし、「静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられる」は、私見と大きく食い違う。曖昧な「国民意識の受容」をもって軽々に憲法原則を曲げてはならないと思う。また、質問内容もものたりないとは思う。それでも、果敢にこのような趣意書を発信して答弁を引き出している姿勢は評価したい。

    なお、引用されている「昭和四六(行ツ)第六九号・行政処分取消等請求上告事件」は、津地鎮祭訴訟のこと。(行ツ)は、行政訴訟上告審の事件番号に付する符号。民事訴訟ではなく、行政訴訟としての住民訴訟だった。名古屋高裁の住民側勝訴判決を逆転し、厳格分離説を排斥して政教分離の規準として目的効果論を採用した判例として知られているもの。

    衆議院議員逢坂誠二君提出安倍総理の伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問に対する答弁書

    一について
    内閣総理大臣が私人としての立場で行う伊勢神宮参拝については、政府として立ち入るべきものではないことから、お尋ねについてお答えすることは差し控えたい。

    二から四までについて
    お尋ねの「発信」又は「告知」は、それ自体宗教的意義をもつ行為ではなく、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるようなこともないことが明らかであることから、「日本国憲法第二十条に反する」及び「不適切」との御指摘は当たらないと考えている。

    ニベもない答弁書である。質問の一部に対しては、「安倍晋三の伊勢神宮参拝は『私人としてのもの』だから政府は関与しない」という。また、LINEでの告知は、目的効果基準からは許されるとしている。しかし、安倍晋三は、肩書を記帳し、随員を同道し、公用車も使い、列車にも公費で乗車している。玉串料だけは私費で支出しているというが、それなら問題ないということにはならない。

    下記は、天皇と首相の靖国神社公式参拝を違憲とした岩手靖国訴訟仙台高裁判決(1991年3月1日)の判示の一節である。

    「天皇及び内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は,その目的が宗教的意義をもち,その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり,しかも,公的資格においてされる公式参拝がもたらす直接的,顕在的な影響及び将来予想される間接的,潜在的な動向を総合考慮すれば,前記公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは,憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものであり,憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為である」

    目的効果基準を前提としてなお、「直接的・顕在的な影響だけではなく、将来予想される間接的・潜在的な動向、波及的効果までを総合考慮する」ことによって、政教分離違反・違憲と断じている。安倍晋三は、この判決の「靖国神社」を「伊勢神宮」と読み替えて、よく理解してもらわねばならない。
    (2020年1月7日)

    初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.1.7より許可を得て転載

    http://article9.jp/wordpress/?p=14098

    〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/

    〔opinion9330:200108〕

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さい銭を投げて再選願う政治屋──はいない

 「神は妄想である」と喝破されている現在、宗教を信じている人間は妄想を楽しんでいるのであろうが、妄想のついでに駄洒落でさい銭の額を決めているようだ。5円(ゴエン)が重なればと喜ぶ愚民は、餅の誤嚥で死んだ2人の老人を思うことはない。「イワシの頭も信心から」という警句を忘却した現代人は皇居にまでわざわざ出かけ、税金泥棒で贅沢三昧のゴロツキどもを拝みに行くのだが、えらくもないものを訂正不能の強い確信で信じるのも決して楽なことではないが、「どうせ私を騙すなら死ぬまで騙してちょうだいな!」というような気楽な調子で、一生臣民気分でいるのもそう悪くはない生き方なのだろう。このような「強い者には巻かれてしまえ!」という処世術では、世にはびこるあらゆるいじめを防げないが、さし当たっては自らがいじめの対象にならない限りは大丈夫だ、と確信しているのだろう。上が腐っている以上、下も腐っているのは必然で、わたしの周りでもいじめは頻発している。だが、ほとんど誰も動かない。


 さてここで考えてみよう。いじめの被害者は神社などでさい銭投げて、何かを願うことがあるのだろうか?もちろんいじめ加害者は「今年も楽しいことがあるように」と願いごと。で、一方いじめ被害者の場合──「もういじめられないようにと神さまにお願いした」ともし子どもが答えたら(こういうことはほとんど起きないが)私たちはどんな答えを用意しているのか?もちろ子どもの親などは、この僥倖を感謝し、すぐさまいじめ防止の行動を起こすべきなのだが、わたしたち第三者は、いじめを放置している自らの不明を恥じ、「神などいないのだから、ちゃんとした法律を作っていじめを防止すべき」だ、と答えるぐらいしかないはずだ。だって神などに頼っても何もしてくれないことはもう分かっているのだから・・・。

 さらに敢えて言っておくと、“神の命令”でアメリカ先住民の大多数が殺戮されたことを私たちは知っているはずだから、私たちは神など信じては絶対いけないのだ!


■参拝に欠かせない「さい銭」 適正な金額、ふさわしくない金額は?

さい銭の額はどうやって決める?

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 年末年始は、神社やお寺に参拝する機会が増える時季です。参拝のときに欠かせないのが「さい銭」ですが、どれくらいの金額を入れるのか、それをどのように決めるのかは、「ご縁があるように5円を入れる」「いつも何となくゾロ目にしている」「強く願いたいときは奮発して1000円入れる」「穴が開いている硬貨を選ぶ」などさまざまなようです。一方で、「いくら入れるか毎回迷う」「適正な金額はあるのかな」など金額に悩む声もあります。

 さい銭にまつわる疑問について、和文化研究家で日本礼法教授の齊木由香さんに聞きました。

神社と寺院で考え方に違い

Q.そもそも、さい銭とは何でしょうか。

齊木さん「さい銭とは本来、願い事が成就した際に、そのお礼として神仏にささげる銭、お金のことを指します。農耕民族である私たちの先祖は、秋になると稲作の収穫に感謝してその年の新米を白い紙に包み、『おひねり』として神様に奉納していました。やがて、貨幣が普及するにつれ、米や野菜といった『物』ではなく『お金』をお供えするように変わっていきました」

Q.さい銭の金額は高ければ高いほど、ご利益があるのでしょうか。

齊木さん「高ければ高いほどご利益がある、というわけではありません。先ほど述べたように、そもそも、さい銭は願いをかなえていただいたことに対する感謝の気持ちや、神様に対する真心を込めた『お供え物』です。お供え物をした上で、日頃の平穏に感謝したり、お願いをしたりするのです。ご利益を期待する前に、どのような思いでお供えをするのかが大切といえるのではないでしょうか」

Q.ずばり、さい銭の「適正な金額」はあるのでしょうか。

齊木さん「適正な金額は神社・寺院共にありませんが、考え方の違いはあります。神社でのさい銭は『神様へのお供え物』、寺院では『お布施』にあたります。いずれも自分の気持ちに見合う額を納めるのが好ましいとされています。ただし、次のように、語呂合わせによって縁起がよいとされる金額があります。気になる人は神社へ行く前に用意しておくとよいかもしれません」

・5円玉…「ご縁」がありますように
・5円×2枚…よい「ご縁」が重なる
・15円…「十分なご縁」がありますように
・20円…「二重のご縁」で縁起がよい
・21円…割り切れない数字であるため、「別れない」という意味がある
・35円…「再三ご縁」がありますように
・55円…「五重のご縁」がありますように

Q.一方で、さい銭としてふさわしくない金額はあるのでしょうか。

齊木さん「一般的には、ふさわしくない金額はありませんが、こちらも語呂合わせによって縁起が悪いとされる金額はあります。入れてしまった後は気にし過ぎることなく、感謝の気持ちを持つことが大切といえるでしょう」

・10円玉…10=とおえん=遠縁=縁を遠ざけるという意味
・500円玉…これ以上大きな硬貨(効果)がない
・65円…ろくなご縁がない

Q.「家族全員で○円」と、複数人数分のさい銭をまとめて入れる人もいるようです。

齊木さん「家族の幸せをお祈りすること自体はよいですが、家族の分のさい銭をまとめて納めるのは好ましくありません。基本は一人一人が自分でさい銭を納め、拝礼をしましょう。それぞれが気持ちに見合う分のさい銭を納め、感謝の気持ちを表すことが神様への敬意といえます。一方で、喪中や体調が悪いなど外出できない事情がある場合は、代理で参拝してもらうこともよいとされています」

複数のさい銭箱があったら?

Q.敷地内に、複数のさい銭箱がある神社や寺も多く存在しますが、すべてにさい銭を入れるべきでしょうか。

齊木さん「本殿以外に小さな社(やしろ)が建っている場合、その神社の祭神とゆかりが深いのが摂社(せっしゃ)、それ以外を末社(まっしゃ)といいます。このような神社の敷地内には複数のさい銭箱がある場合がありますが、すべてにさい銭を入れる必要はなく、適正な金額もありません。

先に本殿を参拝し、『この神様にも感謝の気持ちを伝えたい』と思う摂社や末社があれば、そちらにもさい銭を入れ、感謝の気持ちを込めてお参りしてはいかがでしょうか。大切なのはご自身の“心”です」

Q.その他、さい銭を入れるときに注意すべき作法があれば教えてください。

齊木さん「さい銭箱にさい銭を入れる際は、優しく滑らせるように入れましょう。さい銭は神様にささげるものですから、乱暴に投げ入れるのは失礼にあたります。

お札をささげたい場合、封筒や熨斗(のし)袋に入れて納めるのが正しい作法です。1万円札など金額の高いお札の場合は、ご祝儀袋に入れます。封筒の場合は、表書きは『御初穂料』とし、裏には住所と名前を書きます。熨斗袋の場合は、水引の上を『御初穂料』とし、水引の下に名前を書きます。いずれの場合も、お札は新札を使うようにしましょう」

教皇、天皇、水戦争、宗教殺人、神からの明白な使命→植民地主義の正当化、・・・

殺せ!と神が命じるとき
宗教殺人について

佐倉 哲

95年12月9日 公表、99年11月20日更新

http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html


■教徒0.3%の国に教皇が来る意味 批評家・若松英輔氏
有料会員限定記事 ローマ教皇

2019年11月24日06時00分
   
https://digital.asahi.com/articles/ASMCN6QVDMCNUTIL043.html


■水が人の生命に不可欠だとして、それは人間の基本的ニーズなのか、それとも基本的人権なのか?

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-9963.html


■第5回世界水フォーラム(2009年3月、イスタンブール市)、ナルヒト発言

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-9935.html


■水戦争 ナルヒトも映っているデモクラシー・ナウ 動画 世界水フォーラムは「水の民営化」を促進する企業見本市

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-9870.html


■天皇川柳など

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-9874.html


■宗教殺人の色々 ~天皇教、オウム、タクフィール(背教徒宣告)、そしてキリスト教~

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-10294.html

『信濃毎日新聞』社説:知事と護国神社 政教分離がゆるがせに

■社説:知事と護国神社 政教分離がゆるがせに

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190823/KP190822ETI090015000.php


 国及びその機関は、いかなる宗教的活動もしてはならない―。憲法は信教の自由を保障し、前提として徹底した政教分離を定めている。そこには国だけでなく地方自治体も含まれる。

 その原則をゆるがせにする行為と言うほかない。阿部守一知事の県護国神社との関わりである。「個人としての活動」という説明で済ますことはできない。

 護国神社の崇敬者会の会長を、知事1期目の2011年から務めている。神社を物心両面で支える組織だ。鳥居を修復するための寄付を集める趣意書にも会長として名を連ねていた。

 戦前、政府は神社神道を事実上の国教と位置づけて天皇による支配を正当化し、国の統治に利用した。戦死者を「英霊」として祭る靖国神社や各地の護国神社は軍国主義の精神的な支柱として国民を戦争に動員する役割を担った。

 その国家神道体制への反省に立って現憲法は厳格な政教分離を定めた。単に国家と宗教を切り離したのでなく、公権力と神道の関係を断ち切る意味があったことを見落とすわけにいかない。

 崇敬者会の会長職について阿部知事は、個人として引き受けている、政教分離に違反する行為をした認識はないと述べている。憲法を尊重擁護する立場にありながら、見識を疑う発言である。

 憲法が禁じる「宗教的活動」については、学説の多くが広く捉える一方、最高裁は限定して解釈する基準を示してきた。特定の宗教を援助、助長、促進する効果があるか―。判例のその基準に照らしても、知事の神社との関わりは政教分離の原則に反すると憲法学者らが指摘している。

 寄付集めにまで関与したことは宗教的活動にあたる疑いが濃い。春の神社例祭にも出席し、参拝して祝辞を述べている。公務ではないとするが、公の場で神社との結びつきを示すような行動は知事として取るべきでない。

 県護国神社によると、これまでも田中康夫氏を除く歴代の知事が崇敬者会の会長に就いてきたという。阿部知事が就任して既に8年。寄付集めの趣意書に目を留めた人も少なくないはずだ。県議会が承知していながら長く見過ごしてきたとすれば、その責任も問われなければならない。

 神道が国家体制に組み込まれ、軍国主義を支えた時代を振り返るとき、政教分離は決して軽んじてはならない原則である。そのことを広く社会で再認識し、問題意識を共有する機会にもしたい。

(8月23日)


■戦死者祭る県護国神社 支援組織会長に阿部知事 寄付集めにも名前

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190822/KT190821ATI090010000.php


  • 県護国神社鳥居修復事業の寄付集めの趣意書。阿部知事が宮司の隣に「崇敬者会長」として名を連ねている県護国神社鳥居修復事業の寄付集めの趣意書。阿部知事が宮司の隣に「崇敬者会長」として名を連ねている
     阿部守一知事が長野県護国神社(松本市)の支援組織「崇敬者会」の会長を務め、鳥居修復の寄付集めの趣意書にも名を連ねていたことが21日、分かった。4月の同神社例祭にも過去3回、出席・参拝していた。知事は「個人としての活動だ」としているが、複数の憲法学者や弁護士が憲法の政教分離原則に反すると指摘しており、論議を呼びそうだ。

     明治憲法下、国家と神道が結び付いて戦争遂行を担った反省から現憲法は20条で、国(地方自治体を含む)とその機関の宗教的活動を禁止。89条で宗教組織への公金支出などを禁じ、政教分離を徹底させている。

     県護国神社によると、崇敬者会は神社の活動を物心両面で支援する組織。事務局は神社が務めている。阿部氏は1期目の2011年4月に会長に就任した。

     県護国神社では2017年10月の台風で第2鳥居、昨年9月の台風で脇鳥居がそれぞれ倒れた。老朽化した第1鳥居を含め総事業費7千万円の修復事業を計画。「県民の皆様の幅広い御協賛」を求める趣意書に、知事は崇敬者会長として宮司らとともに名を連ねた。

     県護国神社は、崇敬者会の会長には田中康夫氏以外の歴代知事が就任しているとするが、県秘書課は「過去の知事のことまで把握していない」としている。

     阿部知事は「個人としての活動だから信教の自由の範疇(はんちゅう)だと考えている。(崇敬者会の会長は)個人として引き受けているので、政教分離に違反するような行為をしている認識はない」と話している。

     これに対し、高見勝利・北海道大名誉教授(憲法学)は「たとえ憲法上信教の自由があると私人の立場で引き受けたとしても、宗教法人である護国神社の宗教的活動を一体となって支える崇敬者会の会長を兼務することは、県を代表する知事と護国神社との結び付きを象徴するものだ」と指摘。そのため「護国神社とその宗教活動を援助、助長、促進する効果があり、憲法の政教分離原則に違反すると考えられる」と話している。

     また、阿部知事は4月30日に行われる神社例祭に2016、18、19年に出席。参拝し、祝辞を述べた。玉串料を納めたり、記帳したりはしていない。

     県秘書課によると、例祭出席は公務ではなく、秘書課員は随行せず、公用車も使っていない。

     矢島基美・上智大教授(憲法学)は「私人といっても護国神社の崇敬者会の会長である知事が例祭に出席、参拝し祝辞を述べるのは、県民に神社との特別な結び付きがあることを印象付け、宗教活動を援助、助長することになる。控えるべきだ」と警告している。

     県護国神社の地元、松本市は「市長に例祭の案内は来るが、政教分離の原則を踏まえ、出席していない」(秘書課)としている。

     (編集委員・渡辺秀樹)

    (8月22日)



    ■県護国神社に関係する知事の行動は「憲法違反」 県革新懇など是正申し入れ

    https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190824/KT190823FTI090032000.php

     

     県労連や県民医連などでつくる「日本と信州の明日をひらく県民懇話会(県革新懇)」と、県憲法会議は23日、県護国神社に関係する一連の阿部知事の行動は憲法違反だとし、是正を申し入れた。知事は公務があり、丹羽克寿・県秘書課長が代わりに文書を受け取った。

     2団体は文書で「戦前、伊勢神宮や靖国神社、護国神社などは国家神道の中核をなし、天皇の神格化と相まって戦意高揚と戦争遂行の役割を果たした」と指摘。憲法に記された政教分離の原則は「アジア・太平洋戦争の苦い経験と痛恨の反省から導き出されたものだ」と強調した。

     その上で「知事職は、県行政の最高の機関。どんなに『個人としての活動』といっても、知事の言動の多くは公人としての立ち居振る舞いであり、県民にもそのように見られていることを認識すべきだ」とした。

     申し入れ後に県庁で記者会見した県革新懇の山口光昭・代表世話人(80)は、知事は崇敬者会の会長を辞任すべきだと主張。「戦争に国家神道が果たした役割からの反省の上に政教分離の原則があることを、知事にもしっかりと理解してほしい」と述べた。

    (8月24日)



    知事が護国神社の支援組織会長に 「違憲の疑い」指摘も

    有料記事

    岡林佐和 羽場正浩 土屋弘

    https://digital.asahi.com/articles/ASM8R4PV2M8RUOOB00J.html?iref=comtop_list_pol_n02

     長野県護国神社長野県松本市)を支える組織「崇敬者会」の会長に阿部守一知事が就いていることが、憲法政教分離の原則に違反する疑いがあるとの指摘が出ている問題で、阿部知事は23日の定例会見で改めて「私人としての活動であり、違憲ではない」と説明。「ただちに(会長職を)辞任する考えはない」とした。

     阿部知事は会見で、知事としての職務と混同しないよう留意してきたと説明。私人としての信教の自由について「きわめて重要なものだ」と述べ、「憲法に反していないという認識だ」と強調した。会長職の辞任についての考えを問われると「ただちに辞任する考えはない」と否定した。

     一方で「いろいろな考えの方もいらっしゃるし、(自分は)人の意見をかたくなに拒むというタイプの人間ではない。有識者の意見も聞いた上で考え方を整理していきたい」と述べ、今後の対応について検討する考えも示した。

     一方、この日、護憲などを掲げて活動する市民団体「日本と信州の明日をひらく県民懇話会(県革新懇)」のメンバーらが県庁を訪れ、阿部知事の会長辞任を求める要望書を提出した。山口光昭代表世話人は、「先の戦争で重大な誤りを犯してきたことがこの問題の根底にあると、知事に理解してほしい」と話した。

     崇敬者会は護国神社の支援者でつくる組織で、阿部知事は1期目の2011年4月から会長を務めている。神社の鳥居再建のための寄付を募る文書にも名を連ねていた。22日に信濃毎日新聞が報道し、明らかになった。(岡林佐和)

    「私人」通らない 松本市長が疑義

     長野県護国神社松本市)を支える組織の会長に阿部守一知事が就いていることについて、松本市の菅谷昭市長は23日、「『私人として』と言っても、通らないのではないか。周りはみんな公人として見ている」などと述べ、疑問を呈した。

     定例記者会見で見解を問われ、答えた。同神社の例祭にも知事が参加していることと併せ、菅谷市長は「慣例なのだろうが、意外な感じがする。政教分離について、もう少し注意された方がよかった」と語った。

     菅谷市長自身は「常に公人であることを意識し、中立でやっている。ただ、そのスタンスを快く思っていない方々には失礼しているかもしれない」とも述べた。

     また、来年3月末で4期目の市長任期が終わることについては「月並みだが、任期をしっかり全うしたい。現職どうこうより、やる気のある人は出てくださいと、いつも言っている」と述べ、進退を明らかにしなかった。(羽場正浩)

    羽田・長和町長が公用車で例祭出席

     長野県長和町の羽田健一郎町長(長野県町村会長)が、長野県護国神社松本市)で4月にあった例祭に町職員が運転する公用車で出席していたことが分かった。憲法政教分離原則に抵触する恐れもあり、羽田町長は「憲法に触れるという認識がないまま出席した。反省すべきは反省したい」と話している。

     羽田町長によると、今年2月に県町村会長に就任したのに伴い、慣例に従って同神社の総代に就任。例祭の案内が来たため、町の公用車で出向いた。私費で5千円を納め、記帳はしなかったという。羽田町長は朝日新聞の取材に「反省すべきは反省し、改善すべきは改善したい」と述べた。9月2日開会の町議会冒頭で経緯を説明し、釈明するという。(土屋弘)

    「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言



    ■2011年5月17日 / 11:23 / 8年前

    「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言

    https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-21136220110517


     [ロンドン 16日 ロイター] 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考えを否定した。16日付の英紙ガーディアンに掲載されたインタビューで述べた。

     ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。

    博士は21歳の時に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という進行性の神経疾患と診断され、余命数年とされた。「自分は過去49年間にわたって若くして死ぬという可能性と共生してきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだまだやりたいことがある」と語った。

     また、人々はどのように生きるべきかとの問いに対し「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」と答えた。

     1988年の著書「ホーキング、宇宙を語る」で世界中に広く知らるようになった博士は、2010年の著書「The Grand Design(原題)」では宇宙の創造に神の力は必要ないとの主張を展開し、宗教界から批判を浴びている。


     「善人が悪事を行うには宗教が必要だ」は、実は米物理学者スティーヴン・ワインバーグが言っていて――「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。

     藤永茂『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)にもありますが、農耕を知らずに餓えに直面している入植した侵略者たちに先住民は食糧を与え農耕を教えて彼ら彼女らを飢餓から救いました。さて入植した侵略者はどうしたかというと、奴らは何と命の恩人の先住民には感謝せずに“神に感謝した!”のです。この思考回路をたどれば命の恩人の殲滅などわけもないことでした。神を介在する宗教の効用のこの恐ろしさは、神の命令で宗教殺人をいともたやすく実行してしまう信者の存在と同様のものです。だいたい宣教師が侵略の先兵だったとは歴史の常識の一つですが、宗教殺人などの例を多少以下に紹介しておきます。

    ▼国旗はしまおう-7月4日にハワード・ジンを追悼する
    ハワード・ジン

    http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/-74-5d80.html

    ・・・
    最初のイギリス人入植者がマサチューセッツ湾のインディアンの土地に移住し、抵抗に出会った際、武力衝突は、ピクォート・インディアンとの戦争へとエスカレートした。インディアン殺戮は、神によって認められたものであり、土地の奪取は、聖書によって命じられたのだ。清教徒は聖書の詩篇2:8を引用するのだった。"求めよ。さらば汝に諸々の国を嗣業(ゆづり)として与え、地の果てを汝のものとして与えん。"


    イギリス人がピクォートの村に火を放ち、男性、女性や子供を虐殺した際、清教徒の神学者コットン・メーザーはこう言った。 "その日、600人以上のピクォート族が地獄に送られたものと想定される。"

    ▼アメリカの感謝祭
    http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2009/11/post_1636.html

    ・・・プリマス植民地の定着成功はインディアンたちに負うところが大きかったのだが、ピルグリムたちの恐れと感謝の念は彼らの神に向けられていたのであり、侵入白人たちにとって、インディアンがその土地から排除されるべき邪魔者となるのに大して時間はかからなかった。・・・

    ▼リチャード・ドーキンス『神は妄想である 宗教との決別』(垂水雄二訳、早川書房)より―─

     汝の隣人を愛せよ
    (p371)
     ジョン・ ハートゥングのブラック・ユーモアは冒頭から明らかで、そこで彼は、地獄に堕ちるアラバマ人の数をかぞえようという、一人の南部パブテスト協会員の提案について語っている。・・・

     ・・・(引用者注:神によって天国へ引きあげられることについての記述がつづく)

     ハートゥングの聖書解釈が示すところによれば、聖書はキリスト教徒のあいだにおけるそのような独善的な自己満足に、何の根拠も提供しない。イエスは自分によって救われる内集団が厳密にユダヤ人に限定しており、その点で彼は『旧約聖書』の伝統を継承しているのであって、それが彼の知っていることのすべてだった。そしてハートゥングは、「汝殺すべからず」というのはもともと、現在での使われ方とはまったく異なった意味で用いられていたということを、明快な形で示す。つまり、それは非常に特異的に、汝ユダヤ人を殺すべからずということを意味していたのだ。そして、「汝、隣人を」と言及されたあらゆる戒律は、同じように排他的なものだった。「隣人」というのは仲間のユダヤ人を意味するのである。12世紀の高い尊敬を受けていたラビで医師でもあったマイモニデス(モーシェ・ベン・マイモーン)は、「汝、殺すなかれ」が厳密にはどういう意味であるか次のように解説している。「もし、誰かが一人のイスラエル人を殺せば、彼は禁止命令に違反したことになる。なぜなら、聖書には汝、人殺しをするなかれと言っているからである。もし誰かが目撃者のいるところで故意に殺人をなせば、彼は刃にかけて殺されることになる。言うまでもないことだが、その人間がもし異教徒を殺したのであれば、殺されることはない」。言うまでもない、ときた!

    ******

     たとえばイスラエルの蛮行を人種主義・植民地主義だけで説明しても十分なのだが、「宗教書が土地台帳にはやがわり、神が不動産屋の役回りを演じる(エイアル・シヴァン)」ようなシオニズム運動特有の面も当然みられるので、宗教だけですべてを説明する愚に陥らなければ、その面を取り上げるのも大事なことだ。

     上記引用の通りに、今現在仲間のユダヤ人だけを愛しているのがイスラエルである。何の事はない、聖書の教えどおりの事をしているにすぎないと言い訳もできるのだ。道徳の見本として売られている聖書が外集団への虐殺・強かんを賛美しているのだから、信仰を深めれば深めるほど人種主義が過激にもなるのだ。それは入植地へいけばすぐさま確認できることだ。そこではユダヤ人入植者の幼児までもがパレスチナ人に向かって石を投げる。

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