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「南京大虐殺」は不適切? 展示表記巡り長崎原爆資料館で論争 見直しの可能性も

「南京大虐殺」は不適切? 展示表記巡り長崎原爆資料館で論争 見直しの可能性も

南京大虐殺について言及している長崎原爆資料館に展示中の「日中戦争~太平洋戦争終結」を紹介する年表=2月、長崎市© 全国新聞ネット 南京大虐殺について言及している長崎原爆資料館に展示中の「日中戦争~太平洋戦争終結」を紹介する年表=2月、長崎市

 「南京占領、大虐殺事件おこる」

 長崎原爆資料館(長崎市)に展示されている「日中戦争~太平洋戦争終結」の年表中の表記が論争を呼んでいる。資料館を所管する市は、変更を求められてもこれまでは応じてこなかったが、昨年に意見交換の場を設けるなど態度を変えつつあり、将来的な見直しの可能性を示唆。保守系勢力が歓迎の声をあげる一方、世界に核兵器廃絶を求める被爆者らは「旧日本軍の侵略行為と向き合わず、原爆の被害だけを訴えても他国からの理解や共感は得られない」と懸念する。長崎を最後の被爆地に―。この目的を果たすために最適な展示とはいったいどのようなものだろう。 (共同通信=石川陽一)

 ▽平行線の議論

 「加害の歴史から目を背けてはいけない」「実態は虐殺と懸け離れている」。市は昨年12月に開いた「長崎原爆資料館運営審議会」で南京大虐殺の表記を議題に挙げ、被爆者や市議、公募の市民ら19人の委員に意見交換を求めた。そのまま維持するべきだと訴える被爆者と、虐殺は事実無根として変更を主張する保守系団体の代表が発言し、議論は平行線をたどった。結局、結論は出ず「公の場で改めて検討する機会をつくるべきだ」と要望する意見も出た。

 年に1~2回の頻度で開かれる審議会は、資料館の運営や展示内容について市の考えを諮り、市民からの理解を得るために設置している。過去には審議会の了承を得て、長崎に投下された原爆の模型の色など、展示内容を変更したこともある。

 この場で南京大虐殺が取り上げられたきっかけは、昨年9月の長崎市議会だった。保守系会派「明政クラブ」所属の浅田五郎市議(82)が「南京戦はあったとしても虐殺はなかった」という趣旨の主張を展開し、資料館に訂正を求めたのだ。中川正仁市原爆被爆対策部長は「歴史的事実についてはさまざまな見解がある。審議会の意見を頂きながら、慎重に調査、検討を行っていく」と答弁した。

 浅田市議は取材に「祖先をおとしめ、訪れた人に余計な反省を促すような展示は変えていかなければならない。市の(検討するという)対応はまっとうだ」と述べ、今後の議会でも追及する考えを明らかにした。

 ▽教科書の記述変更

 実は2012年3月の市議会でも別の議員が同じ話題について質問している。その時、市側は「一定の市民の合意が得られている。今のままの展示でいこうと思う」と理解を求め、審議会に持ち込むことは無かった。

 今回、市が態度を変えた背景には文部科学省の検定教科書の表記変更がある。原爆資料館の展示内容は検定教科書に準拠しており、96年4月の開館当時に使用されていた中学社会科の教科書(92年検定)では8社中、少なくとも6社が「南京大虐殺」「ナンキン大虐殺」などと表記。一方、現行の教科書(15年検定)で同様の表記は2社にとどまり、「南京事件」や「南京攻略」などとする出版社が増えた。

 審議会委員で長崎原爆被災者協議会の田中重光会長(79)は「教科書の記述変更は歴史認識を改めようとする政府の影響も考えられる」と分析。「原爆がなぜ投下されたのかを考えるためにも、日本の加害行為は明示するべきだ」と強調する。

南京事件を説明した日本史の教科書(2016年)© 全国新聞ネット 南京事件を説明した日本史の教科書(2016年)

 ▽過去に街宣車も

 資料館の展示内容を巡る論争は開館当初からあった。まだオープン前の96年1月、展示に旧日本軍の加害行為を含む原爆投下までの経緯を盛り込むことを朝日新聞がスクープすると、一部の市民や市議が反発。公共施設である資料館のコンセプトを、市が設置した被爆者や有識者らによる非公開の会合で決定したことに批判が集まった。

 さらに開館後、市が展示業務を委託した業者のミスで、年表と共に設置していた南京大虐殺に関する写真と映像が、米国で戦意高揚のために製作された宣伝映画から切り取ったフィクションであることが判明。指摘を受けて資料館は展示内容を差し替えたものの、右翼団体の街宣車が数十台も押しかけて抗議する騒ぎも起こった。

 市はこの時に審議会を設立して議論を重ね、「南京占領、大虐殺事件おこる」の一文はそのまま年表に残った。当時を知る市の関係者は「戦争の全体像を示すことで原爆についての理解を深めてもらおう、という画期的な展示方針を打ち出したはずだった。予期せぬ問題が起こり、本質的な部分から外れたところで注目を集めてしまった」と悔やんでいる。

 一連の騒動を受けて結成され、20年以上にわたって南京大虐殺の表記削除を求めている保守系団体、「長崎の原爆展示をただす市民の会」の渡辺正光会長(83)は「歴史的な事実として確定していないことを、公的な施設で表示するのは間違っている」と主張。実際に南京に従軍した元日本軍兵士に話を聞いたこともあるといい、「戦争なのだから一定数の死者が出るのは当たり前。日本軍は必要最低限の敵兵しか殺しておらず、民間人の虐殺はなかったと確信している」と語った。

広島原爆資料館の展示にある南京大虐殺についての記述=2月、広島市© 全国新聞ネット 広島原爆資料館の展示にある南京大虐殺についての記述=2月、広島市

 ▽核廃絶訴えるために

 旧日本軍の加害行為を巡っては、戦争博物館「大阪国際平和センター」(大阪市)が15年の改装の際、大阪維新の会や自民党の府市議らに「自虐史観」と批判された南京大虐殺や朝鮮人強制連行などの関連資料を撤去した。一方、広島原爆資料館(広島市)は東館が開館した94年6月から、展示で「南京事件や南京大虐殺と呼ばれている」と紹介。中国側が訴える犠牲者数は「30万人余り」とも記している。

 「日本に植民地化されていたアジアの人々にとっては、原爆投下で自分たちが解放されたと考える人も多い」と指摘するのは、旧日本軍の加害行為に焦点を当てた展示の「岡まさはる記念 長崎平和資料館」(長崎市)の崎山昇事務局長(61)。過去に韓国やマレーシアで原爆展を開こうとした際に現地の住民から抗議が出たケースもあると紹介し「日本人として過去の行為と真摯に向き合わなければ、被爆地から核兵器廃絶を叫んでも相手にされない」と訴えた。

 もし長崎原爆資料館が表記を変更すれば、中国との国際問題になりかねない。市は「今すぐ変えることはない」と慎重な姿勢を維持し、新たに意見交換の場を設ける予定は今のところないという。一方で将来的な見直しの可能性は否定せず、同館の大久保一哉館長(58)は「資料館の存在意義は『長崎を最後の被爆地に』というメッセージの発信。その目的を果たすために南京大虐殺の一文が必要かどうかを、今後の議論で見極めなければならない」としている。

南京大虐殺】 日中戦争中の1937年12月、旧日本軍が中国国民政府の首都南京を占領し、中国軍の敗残兵や捕虜、市民を殺傷、暴行した事件。日中の歴史共同研究は2010年、犠牲者数について中国側の「30万人以上」と日本側の「20万人を上限として4万人、2万人などの推計がある」との見解を併記した報告書を公表した。日本の外務省は「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」との立場。国連教育科学文化機関(ユネスコ)は15年、中国政府側が申請した南京大虐殺関連の資料を世界の記憶(世界記憶遺産)に登録し、日本政府が政治利用として抗議した。

中国江蘇省南京市の南京大虐殺記念館で行われた追悼式典で、花輪を手に行進する儀仗(ぎじょう)兵(共同)=2014年© 全国新聞ネット 中国江蘇省南京市の南京大虐殺記念館で行われた追悼式典で、花輪を手に行進する儀仗(ぎじょう)兵(共同)=2014年
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動員朝鮮人名簿15人生存 松代大本営労働従事者の家族ら 韓国で確認

動員朝鮮人名簿15人生存 松代大本営労働従事者の家族ら 韓国で確認

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20200214/KT200203FTI090001000.php

 太平洋戦争末期、松代大本営地下壕(ごう)(長野市)の建設工事に動員された朝鮮人の名簿と戸籍調査史料に記載された労働者家族のうち、少なくとも15人が韓国で生存していることが13日までに、信濃毎日新聞の取材で分かった。うち8人から、韓国で工事や当時の生活などに関する証言を得た。亡くなった人も含めると、名簿記載の少なくとも53人が実在したことも確認した。

 名簿は、同地下壕を中心とする県内の労働現場に動員された朝鮮人とその家族計約2600人分。1945(昭和20)年8月の終戦後に帰国する際、工事事業者や警察署が作ったとみられる「帰鮮関係編纂(さん)」などで、創氏改名後の名前や本籍地、年齢が記されている。記載された朝鮮人の数は、これまで見つかった史料では過去最多。2018年、信濃毎日新聞の報道で存在が明らかになった。

 戸籍調査史料「内地在住朝鮮同胞戸籍及(および)寄留調査手帳」は、45年2月に日本の司法省が朝鮮人の徴兵に向けてまとめたとみられる。手帳6冊に当時の清野村(現長野市松代町清野)に住んでいた計166人の名前や本籍地、職業を記載。名簿と人名の一部が重複している。

 秘密工事だった地下壕の工事は残された史料が乏しく、実態は不明な点が多い。信濃毎日新聞は名簿と調査史料を基に19年10月、韓国で取材を開始。今年1月下旬までに記載者が最多の慶尚南道と、次に多い慶尚北道で計100人余の消息を探った。

 実在を確認した53人には、工事に従事した労働者が含まれていたが、生存者はいなかった。生存が確認できた15人はいずれも当時10歳以下の子どもで、現在は70〜80代。本籍地と性別の内訳は、慶尚北道醴泉(イェチョン)郡の女性2人、同清道(チョンド)郡の男性2人、女性1人、慶尚南道陜川(ハプチョン)郡の男性4人、女性1人、同居昌(コチャン)郡の男性1人、同咸陽(ハミャン)郡の男性1人、女性1人、同固城(コソン)郡の男性1人、女性1人=地図。現在は釜山(プサン)や大邱(テグ)などに暮らす。

 証言した8人は終戦時は0〜8歳。松代で家族と暮らし、主に父親が工事に従事した。工事の飯場(作業員宿舎)があった清野村で生まれた人もいた。いずれも日本の敗戦で韓国に帰国。取材に、日本に渡った経緯や日本での生活を証言した。

 一方、地下壕の壁には「密城」「相天」の文字が残されており、名簿の記載から、この文字が慶尚南道固城郡出身の人名ということが判明していたが、今回、親族への取材で実在が裏付けられた。韓国名は「朴相天(パクサンチョン)」で、帰国後に40、50代で亡くなったという。名簿の存在が明らかになるまでは、この文字は地名と考えられていた。(井口賢太)

(2月14日)


   

松代大本営地下壕の朝鮮人元労働者らの名簿 韓国側の報告書刊行

松代大本営地下壕の朝鮮人元労働者らの名簿 韓国側の報告書刊行

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20200216/KT200214FTI090036000.php

報告書に記載された朝鮮人元労働者の名簿のリスト報告書に記載された朝鮮人元労働者の名簿のリスト

 太平洋戦争末期、松代大本営地下壕(ごう)(長野市)の建設工事に動員された朝鮮人元労働者とその家族の名簿について、韓国の研究者が学術的に分析した報告書が15日までに、同国内で刊行された。名簿記載の約2600人を一覧にし、年齢構成や出身地について考察。地下壕で実施した現地調査や、韓国国内で生存者を捜した経緯にも触れている。

 報告書「松代大本営建設朝鮮人強制動員の実態」はB5判124ページ。高麗大学韓国史研究所の〓(十の下に田、下に日)健(チョゴン)研究教授(43)=肩書は当時=らが2018年に名簿の存在が明らかになったことを受けて調査、執筆した。11年に〓(十の下に田、下に日)教授らがまとめた報告書「日本地域の地下壕に関する真相調査―松代大本営地下壕を中心にして」の改訂版に当たり、同じく18年に見つかった清野村(現長野市松代町清野)の朝鮮人戸籍調査史料の分析も加えて昨年12月に刊行した。

 報告書では、名簿記載者のうち10歳以下が4分の1に達し、60歳以上が34人いることに着目。戦争末期に労働者を高齢者、子どもごと朝鮮半島から移動させた可能性は高くないと指摘した。日本の内地にいて動員された人が少なくなく、「『自由労務者(自由募集に応じた労働者)』の形を帯びていた」とした一方、「軍の大工事がある」と聞き、企業を通じて松代に入った経緯から「構造的強制性を看過してはならない」とした。

 一方、過去の動員体験者の証言から、強制的に現場に連れて来られた事例もあったと指摘している。

 松代大本営については「本土決戦を目的に構築した施設」とし、その本土決戦の実情は「天皇を守るために一般国民を戦争に追いやること」とした。移転計画に松代が適任地として選ばれた理由として、岩盤が丈夫なことや近くに飛行場があることを挙げ、「一般民衆に対する考慮はなかった」とした。

 〓(十の下に田、下に日)教授らは昨年9月、地下壕の調査・研究に取り組むNPO法人松代大本営平和祈念館(長野市)の案内で地下壕を調査。同11月に名簿記載の朝鮮人元労働者を慶尚北道醴泉(イェチョン)郡で捜した。報告書には、韓国人研究者や信州大生、日本の社会科の教員らが地下壕の調査を進め、80年代には地元の高校生や市民団体が保存活動を展開したことにも触れた。醴泉郡で名簿を頼りに高齢者から聞き取りをした様子も紹介。名簿記載の女性2人を捜し当てたが、証言は得られなかったとした。

 今回の調査、分析は韓国政府直属の日帝強制動員被害者支援財団(ソウル市)が委託。関連研究や次代の教育に生かすなどとしている。

(2月16日)

5700年前の北欧の女性、ガムに残るDNAを完全解読

5700年前の北欧の女性、ガムに残るDNAを完全解読

新石器時代の「チューインガム」だった樹脂から抽出、現デンマークのロラン島

2019.12.20


5700年前にバルト海の島に住んでいた「ロラ」の想像図。(IMAGE BY TOM BJÖRKLUND)
[画像のクリックで拡大表示]

 ロラと名付けられたその女性は、紀元前3700年にバルト海の島に住んでいた。乳糖不耐症があり、歯周病も患っていたかもしれない。カモ肉とハシバミの実を食べ、古代ヨーロッパの多くの狩猟採集民と同様に、青い瞳に浅黒い肌、黒髪を持っていた。

 一方、ロラは何年生きたのか、いつ、どこで死んだのかはわからない。というのも、彼女に関する情報は全て、およそ5700年前に彼女がチューインガムのように噛んで捨てた小さな樹脂の塊に残るDNAが教えてくれたものだからだ。

 これは、人間の身体とは関係のない物質を通して、はるか古代に生きていた人のゲノムの完全な解読に初めて成功した例だ。この研究は、12月17日付けで学術誌「Nature Communications」に発表された。

 明らかになったのはロラの遺伝情報だけではない。国際的な研究者チームは、ロラが樹脂を口にする直前に食べたと思われる植物や動物のDNAや、彼女の口の中にすんでいた無数の微生物の集団、つまり細菌叢(マイクロバイオーム)のDNAまで特定した。(参考記事:「ネアンデルタール人が鎮痛剤、歯石分析で検出」

「人骨以外から古代の人間の完全なゲノムの情報を手に入れたのは初めてのことで、それ自体驚くべき成果です」。論文の共著者で、デンマーク、コペンハーゲン大学グローブ研究所の進化ゲノム学准教授を務めるハネス・シュローダー氏は言う。「微生物のDNAまで抽出できたというのは、非常に興味深いです」

 人間の細菌叢に関する科学的な理解はまだ初期段階だが、それが私たちの健康に重要な役割を果たしていることがわかり始めている。人それぞれが持つ細菌叢の違いが、感染症や心臓病にかかるリスクのほか、その人の行動にまで影響する可能性もある。

 古代のDNAとその個人が持つ細菌叢を合わせて解析することで、人間の細菌叢がどのように進化したかを知ることができると、シュローダー氏は言う。そして、たとえば数千年前に狩猟採集から農耕へ移った際に食生活が変化し、それによっていかに細菌叢が変化したのかも明らかにできると期待される。

2004年再び、新潟県中越地震と(運だけで救われた)上越新幹線脱線事故、そして沖国大米軍ヘリ墜落事件


 「新潟県中越地震」と「新潟県中越沖地震」が3年の間隔で起きていて、当然予想されることだが、2つの地震をごちゃ混ぜに記憶されている人は多いと思う。私は反原発ビラを新潟県中越沖地震のあとに書いているのだが、その際は地震直後だから峻別したはずだ。


 以下、ビラより──


▼・・・不思議なことがある。原爆2発を食らった国に55基の原子力発電所が存在するという矛盾と愚劣が長く続いた奇跡。・・・奇跡?そう日本は地震大国、たまたま今まで地震が比較的少ない静穏期だっただけのために、原発震災(大地震により原発が暴走して、地震と原発暴走の両方の災害に見舞われること)が起きなかった。しかしこれからは、日本列島ほぼ全域で大地震の活動期に入りつつあると、ほとんどの地震学者が警告している。

 そうした中、今年の7月16日、M(マグニチュード)6.8の新潟中越沖地震が起こったが、幸運にも活断層上に建てられた柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原発は致命的な事故を免れた(注:世界最大の原発=柏崎刈羽原発全7基のうち、稼働中の3基と起動中1基はなんとか停止しました。残り3基は定期検査中)。敷地内の道路は陥没、火災も起きクレーンの軸は折れ、制御棒も1本が炉心から抜けずに残っていた。そして放射能が空や海へ流れたが・・・・・・。

 この時点で私たちは運良く生き延びた事になる。問題はそれ以後である。この事故を教訓に全ての原発を止めるのがまともな人間の判断だと思うが、日本ではそうはならないようだ。これからも運を頼りに相も変わらず今までの愚行を押し進めるらしいのである。

 さて柏崎刈羽原発は地震災害のため全面的に止められたが、それでも東京電力は何とかやりくりし首都圏は停電を免れている。要するに原発に日本の電力の30%以上を依存しているという宣伝は、それ自体ではウソではないが、ある意味誇張である。要するに止めたり動かしたりの小回りがきかない原発を無理矢理に動かして電力の30%以上を原発に依存させ、火力発電を半分近く遊ばせているというのが、その数字の実態なのである。早い話、休めさせている火力発電や修理すれば使える火力発電をうまく使えば、加えて水力、風力なども使えば、日本の電力など原発なしでも何とでもなる。そうしない理由の一つには、核兵器を持ちたいから・・・も、あるかもしれない。


******


 このビラの時点では、以下の島村英紀の論考の趣旨のようなことは書けたわけだが、知っていても書かなかったのか、知らなかったから書かなかったのかは今となっては分からない。これを含めて、かように人の記憶などいい加減なものなので、何度も振り返り歴史の再学習するしかないのである。その時でも元号表記などは最悪で、記憶の邪魔にしかならない。


 よって、2004年をイチローの年間最多安打262の年として記憶しても良いのだが、同時にスマトラ島沖地震と新潟県中越地震を記憶してもらい、地震大国の両国がテロ国家アメリカの支配下──ヒロヒトが関与した安保、その安保が原因の沖国大米軍ヘリ墜落事件が8月13日──にあり、両国とも過激宗教に支配されている現実を再確認すれば良いわけだ。簡単に言えば、テロ国家アメリカによりヒロヒトが温存され、スカルノが追い出された。


■沖国大米軍ヘリ墜落事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E3%83%98%E3%83%AA%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E4%BB%B6



■島村英紀『夕刊フジ』 2014年4月25日(金曜)。5面。コラムその48 「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

地震による新幹線事故は運次第か
『夕刊フジ』公式ホームページでの題は「魚沼トンネル崩壊の再来も…」

http://shima3.fc2web.com/yuukanfuji-column48.htm
 


 JRがひそかに怖れていることがある。地震による新幹線の大事故だ。
  
  新幹線が開業してから今年で50年。この間、欧州では何度か大事故が起きたが、日本では人命にかかわるような事故は起きていない。

 いままでの最大の事故は2004年、新潟中越地震(マグニチュード6.8)での上越新幹線の脱線事故だった。

  走行中だった「とき325号」が脱線して傾いた。しかし幸い乗客乗員155人に死者も負傷者も出なかった。

  この「325号」は新潟県長岡駅に停車するために減速中で、フルスピードではなかった。そのうえいくつもの幸運が重なった。現場の上下線の間にある豪雪地帯にしかない排雪溝にはまり込んだまま滑走したことも、現場の線路がカーブしていなかったことも、現場が高架だったためにレールのすぐ脇がコンクリートだったことも、対向列車がなくて正面衝突をしなかったことも幸いだった。

  そしてこの新幹線が東北・上越新幹線の初代の「ボディーマウント構造」の車両だったために台車のギヤケースという部品と脱線した車輪がレールを挟み込んでくれたことも転覆をまぬがれた理由だった。

  じつは、これらの幸運よりもはるかに大きな「幸運」があった。地震が起きたのは10月23日17時56分。そのわずか3分前にはこの「325号」は長さ8624メートルの魚沼(うおぬま)トンネルをフルスピードで駆け抜けていたのであった。

  この地震で魚沼トンネル内はめちゃめちゃになった。レールの土台が25センチも飛び上がり、1メートル四方以上の巨大なコンクリートが壁から多数落ちたほか、トンネルの各所が崩壊していたのだ。もし地震がちょうど通過時に起きていたら、新幹線が巻きこまれて大事故になっていたことは間違いない。

  この魚沼トンネルは山を掘り抜いた「山岳トンネル」というものだ。阪神淡路大震災(1995年)では天井と床をコンクリートの柱で支えるトンネルが数カ所崩壊したが、それよりも地震に強いはずのトンネルだった。

  山岳トンネルでもいままでに地震で無事だったわけではない。関東地震(1923年)以来19もの山岳トンネルが壊れている。それが人命にかかわる大事故にならなかったのは、たまたま列車が通っていなかったからにすぎない。

  着工予定のリニア新幹線はその86%がトンネルだし、山陽新幹線も51%がトンネルだ。「魚沼トンネルの再来」がいつ起きるか分からないのである。

  だが危険はトンネルだけではない。阪神淡路大震災が起きたのは、新幹線が走り出す14分前の朝5時46分だった。地震には耐えるはずだった新幹線の鉄道橋がいくつか落ちたが、もし新幹線が走っていた時間帯だったら大事故になったに違いない。

  東日本大震災(2011年)でも新幹線が仙台近くで脱線した。これも運良く、乗客は乗っていない試運転中の列車だった。

  連載で書いてきたように日本のどこでも直下型地震が起きうる。また「緊急地震速報」は直下型地震では間に合わない。いままでは運が良かった。しかし、これからも運がいいとは限らない。

■新潟県中越地震

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E5%9C%B0%E9%9C%87#鉄道



■上越新幹線脱線事故

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%B6%8A%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E8%84%B1%E7%B7%9A%E4%BA%8B%E6%95%85




■島村英紀『夕刊フジ』 2019年10月18日(金曜)。4面。コラムその319。「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

 http://shima3.fc2web.com/yuukanfuji-column319.htm



 

台風・地震・・ダムやため池の危険性
『夕刊フジ』公式ホームページの題も同じ



 ふだんはダムやため池は水をたたえていて人々の心を和ませる。観光地になっているところも多い。

  だが、いったん決壊すれば、ダムやため池は豹変(ひょうへん)する。多くの人が巻き添えになることも多い。ダムやため池の大量の水が下流を襲うからだ。その原因には豪雨があるし、地震もある。

  2011年の東日本大震災のときの福島県・藤沼ダムにはダムが地震で決壊して大量の水が下流を襲った。長沼地区や滝地区では死者行方不明者8人、流失や全壊した家屋19棟、床上・床下浸水した家屋が55棟という被害を出し、田畑の土壌も多くが流失した。

  また2016年の熊本地震では黒川第1発電所の貯水施設が地震直後に決壊した。大量の水が下の部落を襲って、民家9戸が壊れ、2人がなくなった。

  決壊しないまでも、2018年の西日本豪雨では、愛媛県にある野村ダムと鹿野川ダムの決壊を防ぐために大量の「緊急放流」が行われ、肱川(ひじかわ)が氾濫して8名の死者が出たほか、家屋3000戸が浸水被害を受けるなど大きな被害が出た。

  「緊急放流」は先週末の台風19号の神奈川・城山ダムでも、同ダムとしては初めて行われた。相模原、厚木、海老名、平塚、茅ケ崎、座間など数十万人が住む人口密集地帯での洪水が心配されて避難が始まった。幸い雨が収まったので緊急放流は4時間弱で止められたので被害はなかった。

  ダムだけではない。全国各地にあるため池も同じように大量の水が下の村を襲う可能性が大きい。1854年に起きた巨大地震、安政南海地震では、いまの香川県にあった満濃池(まんのういけ)が決壊した。高さ15メートルを超す大きなダムだった。

  2018年の西日本豪雨でもため池の決壊が相次ぎ、3歳の女児が犠牲になるなど被害が出た。

  ため池が決壊する危険性について、この秋までに会計検査院が、自治体が行う調査方法を調べた。その結果、約4割が新設や改修の際に定められた設計指針よりずっと緩い基準で調査されていたことが分かった。

  新設するときには「200年に1度の豪雨」を想定して設計指針が定められている。だが、昔からあるため池はずっと基準が緩い。たとえば、23府県の約1万カ所のため池の調査結果では、約4000カ所が「50年に1度」など、より緩い基準で自治体が大丈夫だと判定していた。

  その上、会計検査院の今回の調査では調査漏れが多い。規模が小さいことを理由に耐震性が厳密に調べられなかったため池は3000カ所もある。しかも130カ所は人口集中地区にある。被害が大きくなる場所だ。

  地球温暖化で今までにない台風や大雨に襲われ始めているだけに、豪雨の被害もこれから増えるだろう。従来の「50年に1度」の基準では危ない。しかも、全国どこでも、地震に襲われる可能性がある。

  ダムは、大きな災害を引き起こすという問題を抱えている。「治水」が目的のひとつであるダムは、じつは加害者になるかもしれないのである。

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