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<社説>10・10空襲から75年 軍備増強が惨劇を招いた

<社説>10・10空襲から75年 軍備増強が惨劇を招いた

 米軍上陸による激しい地上戦の前哨戦となった10・10空襲は、日本全国で76万人が犠牲となった無差別攻撃の始まりでもあった。
 早朝に始まった5次にわたる空襲は主に飛行場や港湾の軍事施設を標的としたが、攻撃対象は民間地域にも広がった。那覇市では大量の爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下し、学校など公共施設や民家を焼き払った。
 それだけではない。商業、交易の街として栄えた那覇の歴史や文化が一日にして壊滅した。復興のために市民の多大な労力と長い年月を要した。戦争のすさまじい破壊力はこの街の歴史と将来を奪った。
 なぜ沖縄が米軍の標的となり、壊滅的な空襲被害を受けたのかを考えたい。
 1944年3月に創設された第32軍は米軍の侵攻に備え、沖縄本島や周辺離島で飛行場や軍事施設の構築を推し進めた。その過程で多くの県民が動員された。米軍はこれらの飛行場や軍事施設を攻撃し、日本軍の弱体化を図った。
 日本軍は沖縄を日本本土防衛の防波堤とし、県民に対しては「軍官民共生共死」の方針を強いた。米軍は本土攻略に向けた戦略的な価値を沖縄に見いだした。太平洋を部隊とした日米両軍の戦闘が10・10空襲、翌年の沖縄戦へとつながり多大な県民の犠牲を生んだ。そのことから私たちは「戦争につながるものを許してはならない」という教訓を得たのである。
 今日、沖縄では日米双方による軍備増強が進められている。これは沖縄戦の悲劇から得た教訓に反するものであり、今日の県民の意思にも背くものだ。
 宮古島では陸上自衛隊ミサイル部隊の配備計画が進んでいる。既に宮古島駐屯地に、住民への説明がないまま中距離多目的誘発弾や迫撃砲は保管されていた。石垣島でも陸自駐屯地の工事が今年3月に始まった。いずれも地域住民の理解を得たとは言い難い。
 名護市辺野古では沖縄の民意に反し普天間飛行場の返還に伴う新基地建設が強行されている。さらに今月、核弾頭が搭載可能な中距離ミサイルを、沖縄をはじめとする日本に配備するという米計画が明らかになった
 10・10空襲や沖縄戦体験に照らせば、日米による沖縄の軍備増強は住民を守るものではない。むしろ危機に陥れる可能性が大きい。これらの動きに異議を申し立てるためにも10・10空襲を語り継がなければならない。
 75年前の悲惨な体験を踏まえ、平和を築くことが沖縄の未来に対する私たちの使命だと自覚したい。

小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる 弁護士供述記録

小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる 弁護士供述記録

 「蟹工船」で知られるプロレタリア作家、小林多喜二(1903~33)が治安維持法違反容疑で逮捕され、警視庁築地署で拷問死した後、遺族が特高警察を告訴しようとしていたことが分かった。多喜二研究者の荻野富士夫・小樽商科大学名誉教授(日本近現代史)が、多喜二と関係のあった弁護士を取り調べた公判前の予審記録からみつけた。告訴は実現しなかったが、厳しい思想弾圧の時代に拷問死をめぐって遺族が抵抗を試みようとした一端が明らかになった。

 記録は、33年9月に同法違反容疑で検挙された窪田貞三郎弁護士に対する「予審尋問調書写」。予審判事が34年3月~35年2月、東京の豊多摩刑務所で窪田に尋問した12回分のやり取りを記した写しで、同志社大学京都市)が所蔵してきた。

 窪田は労働・農民運動家らの法廷闘争を支援した日本労農弁護士団の一員。「調書写」には遺族から告訴を依頼されたかどうかを問われた記述があり、「弟と兄から依頼され資料を受け取り、別の弁護士に引き継いだ」とし、「証拠薄弱のため、そのままになった」と答えていた。

 荻野さんによると、警視庁は33年2月20日の逮捕当日に死亡した多喜二の死因を「心臓マヒ」と発表。だが、自宅で遺体を見た医師や友人らが両足などに暴行の痕を確認し、遺体写真や多喜二の母セキの証言から拷問死とされてきた。

 弁護士団は告訴に向けて遺体解剖を3カ所の大学病院に頼んだが、いずれも解剖されなかった。荻野さんは、特高が告訴を阻むために病院側に圧力をかけたとみて、「こうした記録は敗戦時、ほとんど焼却処分され、極めて貴重な資料だ。遺族が告訴できれば同法運用に欠かせなかった暴力的取り調べに一定の歯止めがかかった可能性はある」と指摘する。

 荻野さんによると、戦前にも告訴の制度があり、多喜二が死去した前年には拷問死した共産党幹部の遺族が、警視庁特高課長らを殺人罪などで東京地裁検事局に告訴したが、検察側の圧力で取り下げられた事例もあった。特高の拷問を告訴・告発した例は、戦後の47年に戦時下最大の言論弾圧とされる横浜事件の被害者によるものしか確認されていない。

 近代刑法史に詳しい内田博文・九州大名誉教授は「戦時下、為政者は暴力を合法化してきたが、拷問死までは合法化できなかった。為政者が行ったのは事実を隠蔽(いんぺい)し、遺族らの責任追及を妨げることで、今回の予審記録はその一端を明らかにしている」と話している。(中村尚徳)

ヒトラーの従姉妹──アロイシア・ファイトもガス室で殺された

■スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』正高信男・入口真夕子訳、講談社、2018年第3刷

頁137──

 オーストリアの損失は、世界のほかの地域にとっては利得と化した。アニー・ヴァイスが、アスペルガーのチームを離れた最初の人物となり、1934年にアメリカに到着した。診療所の才能ある診断医であったゲオルグ・フランクルは1937年に出国し、オーストリアから数年早く逃れたユダヤ人医師の援助を受けてメリーランドに移住した。その一方で、NSDAPの力と影響が増すにつれ、信奉者は出世をとげることとなった。エルヴィン・イェケリウスは、直腸に便がつまって起こる肛門の漏出と腸の炎症を説明するため、paradoxical obstipation(逆行性腸炎)という言葉を作り出すほど、英語圏でも小児科医で名の通った研究者であったが、第三帝国に忠誠を誓う福音教会議会の議長の推薦で、市の衛生局長に抜擢された。<以下略>・・・


頁156──

 こうした安楽殺計画の実行と抵抗の葛藤のなかでも、アロイシア・ファイトという統合失調症の年配の女性患者の事例ほど、宿命を感じさせるものは他にはないかもしれない。彼女は人生のほとんどを鉄のベッドに鎖で繋がれて過ごし、笑う頭蓋骨の幻覚に取り憑かれていた。ある日、イェケリウスがオフィスにいるとVIPが訪ねて来た。総統の妹であるパウラ・ヒトラーだった。彼女は自分の従姉妹であるアロイシアは、生きてしかるべきだと言い張った。ベルリンからの承認なしに彼女の依頼を無下に断ることはイェケリウスにとっても、気がひけることであったが、それでも彼女の努力は実らなかった(疑う余地もなく、兄のアドルフは、自分の家系に「劣性遺伝子」の影響を持つ者がいることを知られたくなかった)。49歳の時、アロイシアは、ハルトハイムにある殺人施設の一酸化炭素が充満した部屋で亡くなったのだった。
 ところがパウラの熱心な嘆願は、別の意味でイェケリウスに大きな影響を与えることになった。彼は彼女に恋をしたのだ。<以下略>・・・


■  T4作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6

・・・
処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[16]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[17][1]。「処分者」は、郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。

専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベレンブルク安楽死施設(ドイツ語版) 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版) 、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[7]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[15]。
。。。


移送された者はガス室に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[# 7]、飢餓による殺害も含まれている[16]。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

萩原朔太郎:朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の慘虐ぞ

■青空文庫

大正十二年九月一日の大震に際して

芥川龍之介

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3762_27361.html


・・・




 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛きくちくわんはこの資格に乏しい。
 戒厳令かいげんれいかれたのち、僕は巻煙草をくはへたまま、菊池と雑談を交換してゐた。もつとも雑談とは云ふものの、地震以外の話の出たわけではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池はまゆを挙げながら、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだよ、君」と一喝いつかつした。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だらう」と云ふほかはなかつた。しかし次手ついでにもう一度、なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)か」と忽ち自説(?)を撤回てつくわい[#ルビの「てつくわい」は底本では「てつくわ」]した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきをよそほはねばならぬものである。けれども野蛮やばんなる菊池寛は信じもしなければ信じる真似まねもしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄はうきしたと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団じけいだんの一員たる僕は菊池の為にをしまざるを得ない。
 もつとも善良なる市民になることは、――かく苦心を要するものである。




■青空文庫

近日所感

萩原朔太郎

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/53652_44293.html


朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
われ怒りて視る、何の慘虐ぞ


■西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』ちくま文庫、2018年

頁115──

文化人らの証言 その後の回想

頁123──

闇と人間                                黒澤明

 下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向う見ずな行動に出る。
 経験の無い人には、人間のとっての真の闇というものが、どれほど恐ろしいものか、想像もつくまいが、その恐怖は人間の正気を奪う。
 どっちを見ても何も見えない頼りなさは、人間を心の底からうろたえさせるのだ。
 関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。
 私は、髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指指して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た。
 焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからだというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。
 私はドキドキして一緒だった兄を見た。
 兄はニヤニヤしている。
 その時、
「馬鹿者ッ!」
 と、父が大喝一声した。
 そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。
 町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。
 仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。
 ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、と云うのである。
 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。
 町内の、ある家の井戸水を、飲んではいけないと云うのだ。
 何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと云うのである。
 私は惘れ返った。
 何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。
 私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。
[映画監督・脚本家。当時13歳、小石川大曲(現・文京区)付近に住む]
(黒澤明『蝦蟇の油──自伝のようなもの──』岩波書店、1984年)



情報収集中&放電中

朝鮮人あまた殺されたり   その血百里の間に連らなれり   われ怒りて視る、何の惨虐ぞ  

https://blogs.yahoo.co.jp/honjyofag/66618765.html

「われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」

イメージ 1

http://www.labornetjp.org/image/2014/0901hagihara  朝鮮人あまた殺されたり
  その血百里の間に連らなれり
  われ怒りて視る、何の惨虐ぞ


これは「近日所感」と題された萩原朔太郎(写真)の三行詩で、関東大震災のあった翌年1924年の1月に雑誌「現代」に発表された。朔太郎は郷里前橋から震災の被害に遭った親戚を見舞うために汽車と荷車を乗り継いで東京にむかったが、大宮からは歩いたという。おそらくはそのときに目撃した惨状を詠んだのであろう。
文芸評論家の卞宰洙(ピョン・ジェス)さんによると、「朔太郎の怒りは、無抵抗の朝鮮人をふつうの民間人と軍警が一緒になって虐殺したことに、日本人の自分が許せなかったことに起因している」という。また「惨虐」という語にも注目し、これは「残虐」の当て字でもなく誤字でもなく、その惨状をあらわすにふさわしい造語であったと説明されている。   関東大震災の朝鮮人虐殺にいち早く反応し、その怒りを噴出させて詩に読んだ詩人は、朔太郎のみであり、「月に吠える」で口語自由詩を完成させた近代詩の巨匠の一面は長く記憶にとどめておいてよい、という卞(ピョン)さんの指摘は重い。

  君たちを殺したのは野次馬だというのか?
  野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、日本刀をふるわせたのは誰であったか?
  僕はそれを知っている
  「ザブトン」という日本語を「サフトン」としか発音できなかったがために
  勅語を読まされて
  それを読めなかったがために
  ただそれだけのために
  無惨に殺された朝鮮の仲間たちよ


この詩は戦後に書かれたプロレタリア詩人壺井繁治の「十五円五十銭」の終章の一節である。震災時に日本兵が道行く人々誰彼なしに言わせて、「チュウコエンコチッセンと発音したならば 彼はその場からすぐ引きたてられた」という恐るべき光景を目撃して書いた詩である。
大震災から90年を経た日本の大都市では、竹槍のように鋭い狂音を発するハンドマイクを持ち、鳶口のように危険なプラカードを握りしめ、日本刀のように血なまぐさい言葉の暴力をふりまわしている。「殺せ!殺せ!」と。21世紀の今日、世界中のどんな国でも許されていない人種差別と殺人教唆が渦まく文明国(!?)で、各国の友情と協栄の祭典オリンピックが開かれるとは。何というブラック大国ジャパンだろうか。
しかし、信じよう。今はデモの興奮と熱狂のなかで無自覚に行動している若者から、必ず反レイシズムの先頭に立つ人間が出てくることを。いや実際、そういう青年はもう出て来ているのだ。彼ら自身も貧困や格差・差別に囲まれていることを忘れず、彼らに届く言葉を詩人のように磨かねばならない。
青年たちに凶暴な言葉の暴力を吐かせ、憎しみを募らせるように唆し、操り、使嗾(しそう)するものの正体こそ暴きだし、糾弾していくことが大事だ。
朝鮮問題は日本人のアキレス腱であり、リトマス紙である。神功皇后伝説以来の朝鮮蔑視と侵略思想は深く日本人の血として脈々としてうけつがれ、いまや排外主義者のヘイトスピーチとしてどす黒く吐き出されている。自身の中にもある差別意識を決して忘れず、それを克服するためにこそ、ヘイトスピーチと闘わねばならない。冒頭の朔太郎の三行詩を改めて心に刻みつけたい。
なお、卞宰洙(ピョン・ジェス)さんの朝鮮と日本の詩人について書かれた評論集が年内に発刊予定とのこと、私たちはそこから多くのものを学ぶだろう。

大震災がつけた芸名                      千田是也


「朝鮮人虐殺否定論」が溢れかえる恐ろしさ

内閣府ホームページの報告書“削除”問題をめぐって

加藤直樹 ノンフィクション作家


2013年6月16日、外国人排撃を唱えて、東京・新大久保付近で行われたデモ(参加者の顔をぼかしました) 拡大外国人排撃を唱えたデモ。「朝鮮人ハ皆殺シ」の文言も見える=2013年6月16日、東京・新大久保付近、撮影・樋口大二(参加者の顔はぼかしてあります)

 4月19日、朝日新聞の朝刊に「『朝鮮人虐殺』に苦情、削除/災害教訓の報告書/内閣府HP」という見出しの記事が掲載された。それによれば、内閣府のHPで閲覧できる関東大震災の報告書の中の朝鮮人虐殺についての記述に対して、「なぜこんな内容が載っているんだ」という“苦情”が多かったため、同報告書を含む全ての災害教訓報告書についてHPで閲覧できないようにしたという。

 実際、少なくともその1週間以上前から、朝鮮人虐殺の記述を含む報告書が閲覧できなくなっていることが、ツイッターなどで話題に上っていた。

 「災害教訓の継承に関する専門調査会報告」は、内閣府中央防災会議が専門家に依頼して江戸時代以降の災害の教訓をまとめたものだ。寛文近江・若狭地震(1662年)から雲仙普賢岳の噴火(1990―1995年)まで全部で25編ある。朝鮮人虐殺の記述があるのは、関東大震災直後の政府や社会の対応をまとめた「1923関東大震災【第2編】」である。

 報道を受けて、この問題は国会でも取り上げられた。内閣府には多くの抗議の声が届いたようだ。これに対して内閣府は報道内容を否定し、意図的な削除ではなくリニューアルに伴うリンク切れだと説明。そして、記事が出た翌日には、全ての報告書の閲覧が復活した。

 真相は分からない。確かなことは、朝日が詳細なディティールを含む報道を行い、内閣府がそれを否定したということだけだ。だが、報道を否定しつつも歯切れの悪い態度に終始した内閣府に対し、朝日の方はその後も「複数の担当者から取材した」と強調するなど、揺るがなかった。報道内容に自信をもっていることが分かる。

 同月29日には東京新聞もこの疑惑を取り上げている。そこでは、私も知る出版社「ころから」の木瀬貴吉社長が、朝日の報道の前日に内閣府に問い合わせの電話をした際、担当者が意図的な“削除”を明言したと証言している。

 この“削除”を知ったとき、私は愕然とした。朝鮮人虐殺に言及した「1923関東大震災【第2編】」が閲覧できなくなれば大変なことになると考えたからだ。その危機感を理解していただくには、この数年、インターネット上を中心に広がる「朝鮮人虐殺否定論」についてまず説明しなければならない。

作家が、大学教授が、地方議員が…

 2009年、ノンフィクション作家の工藤美代子氏が『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)という本を出版した。14年には、工藤氏の夫である加藤康男氏が、同じ本を『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック)とタイトルを変えて自分名義で出版している。工藤夫妻の主張は、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こしている」といった事実無根の流言によって多くの朝鮮人が虐殺されたというこれまでの歴史認識は誤りだというものだ。井戸への投毒や暴動は事実であり、「虐殺」と呼ばれてきたものはそれに対する日本人の正当な反撃にすぎないというのである。

 ところがその根拠とされるのは、震災直後の混乱の中で氾濫した流言記事と、証言の曲解や恣意的切り貼り、あるいは工藤氏が父から聞いたという検証不可能な“証言”だけだ。もちろん、歴史学の世界ではこんな主張は全く相手にされていない。

 ところが、この主張はネットでは大いに歓迎され、拡散されていった。こうして今や、「朝鮮人虐殺否定論」が溢れかえっている状況だ。先述のように、震災直後には混乱の中で「朝鮮人暴動」の流言をそのまま事実として報道する新聞記事が氾濫したのだが、否定論者たちはそうした記事の画像を図書館で探してきては、ネット上に掲示して朝鮮人暴動の証拠と宣伝している。

 さらに深刻なのは、 ・・・ログインして読む
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■小池都知事、朝鮮人犠牲者追悼文取りやめの深刻さ

虐殺を隠蔽し、否定したい人々には十分なメッセージ

加藤直樹 ノンフィクション作家


 都立横網町公園は、東京・両国駅近くにある。関東大震災と東京大空襲の犠牲者を追悼することを目的とする公園だ。その一角に、震災時に虐殺された朝鮮人を追悼する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が建っている。

 「日朝両民族の理解と友好」を掲げる日朝協会を中心に文化人や僧侶、東京都議会に議席をもつ各会派の幹事長が集まってつくった実行委員会が建立したもので、寄付などの形で協力したのは、当時の美濃部亮吉都知事、社会党・共産党・自民党・公明党・民社党の国会議員や地方議員、寺院、劇団、法律事務所、企業、労働組合など、約600人の個人と250の団体に上る。1973年9月に建立が実現し、東京都に寄贈された。以来、この碑の前で毎年9月1日、追悼式典実行委員会の主催で朝鮮人追悼式典が行われる。都知事の追悼文も寄せられてきた。

 ところが今年、小池百合子都知事がこの追悼文を出さないと決定し、波紋を呼んでいる。

 新聞各紙は、この決定の背景に、今年3月2日、古賀俊昭都議が都議会で行った一般質問があるとしている。古賀都議はこの日、朝鮮人追悼碑の碑文に朝鮮人犠牲者数として「6000人」と刻まれていること、追悼式典の案内状にも「6000人」の文字があることを「一方的な政治的主張」だと問題視して「追悼の辞の発信を再考すべきだ」と小池都知事に迫ったのだと、新聞は報じている。

 この質問が今回の決定のきっかけとなっていることは間違いない。ただし、議事録を読めば、古賀都議が行った質問の内容は新聞各紙が指摘する「6000人」だけの話ではなかったことが分かる。むしろ報道されていない部分に彼の質問の主眼があり、そこに小池都知事追悼文取りやめ問題の、理解されていない深刻さが表れている。古賀質問をターニングポイントとして前後の経緯を見ることで、問題の本質が見えてくる。

虐殺「6000人」という数字の意味

 まずは古賀質問の内容を吟味してみようと思うが、最初に新聞各紙が焦点を当てた「6000人」という数字の意味について整理しておこう。

 関東大震災時に、どれほどの朝鮮人が殺されたのか。その正確な数を確定的に言うことは不可能である。そのことは虐殺の研究者が口をそろえて指摘している。では「6000人が殺された」という数字はどこから来たのか。これは、震災の翌月、翌々月と朝鮮人留学生ら10人ほどが警察の妨害をかいくぐって関東全域を踏破して調査した結果を基に、上海に本拠を置く独立派の新聞がその年12月に発表したものである。正確には、この新聞は死者を6661人とした。

 この数字は、朝鮮人虐殺についての歴史学的研究が始まった60年代初め以降、最も有力な推計として考えられてきた(この他に、朝鮮人留学生による同じ調査の途中の取りまとめを基にした吉野作造論文の「2613人」などの推計がある)。震災当時の日本政府は、朝鮮人の遺骨を処分するなど事態の隠蔽と矮小化に努めた一方で、まともな調査をしなかった。そのため、同胞の死の真相を明らかにしようという熱意をもって行われた朝鮮人留学生の調査が説得力を持つのは当然だった。

 そのため近年まで、一般的な歴史書では「6000人が殺された」と書いてあるのが普通だった。たとえば私の手元にある本を見ても、「新しい歴史教科書をつくる会」で理事を務め、今はフジサンケイ系の育鵬社の歴史教科書の編集に参加する伊藤隆・東大名誉教授が、1989年に発表した文章(『日本歴史大系5近代II』収録の「中間内閣と政党内閣」、山川出版社)の中にも、あるいは防衛大学学長も務めた猪木正道・京大名誉教授が95年に刊行した本(『軍国日本の興亡――日清戦争から日中戦争へ』中公新書)の中にも、「6000人が殺された」という記述がある。

 犠牲者数についての検証があらためて試みられたのは、70~80年代、地域住民の証言や記録の掘り起こしなどを通じて各地の虐殺の実態が詳細に明らかになっていった後のことだ。虐殺研究の第一人者である山田昭次・立教大学名誉教授が2003年に、各地の掘り起こしを踏まえて「6000人」という数字の信ぴょう性を検証し、これを「そのまま肯定できない」「朝鮮人虐殺数が数千人に達したことは疑いないが、これを厳密に確定することはもはや今日では不可能である」と指摘している(山田『関東大震災時の朝鮮人虐殺――その国家責任と民衆責任』創史社)。

 こうした研究の進展により、最近は「数千人に上ると見られる」といった幅のある表現が多くなった。2008年にまとめられた内閣府中央防災会議の専門調査会報告「1923 関東大震災【第2編】」では、朝鮮人や中国人、そして間違えられて殺された日本人の被殺者数について、千人~数千人という推計を示している。ただし、今でも「6000人が殺された」と書いてある本は少なくないし、現時点では、そうした記述が明確な誤りだとまでは言えない。

 こうして見てきたとき、追悼碑に「6000人」が殺されたと刻まれているのは、1973年という時期を考えれば全く不自然なことではなく、古賀都議の言うような「一方的な政治的主張」とか、「相手(碑の建立者)のいうがまま」に押し付けられたなどということは言えないことが分かる。その数字にことさらな政治的意図を読むのは無理だ。

「虐殺否定論」を広げた「ネタ本」

 そもそも古賀都議は、「6000人」ではなく内閣府中央防災会議の報告書に基づく「数千人」という数字が刻まれた碑文であれば、満足したのだろうか。そんなことはないだろう。というのは、新聞がほとんど報じていないことなのだが、実は彼が3月2日の一般質問で最も力説しているのは、犠牲者の数ではなく、そもそも朝鮮人が一方的に虐殺されたということ自体が事実ではない、ということなのである。そのことは、3月2日の議事録をきちんと読めば分かる。

 古賀都議は質問の冒頭、横網町公園の朝鮮人追悼碑について触れた上で「私は、小池知事にぜひ目を通してほしい本があります。 ・・・ログインして読む
(残り:約5933文字/本文:約8461文字)


■(社説)96年前の虐殺 追悼拒む都知事の誤り

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14156440.html

 96年前の関東大震災の混乱の中、日本で暮らしていた多くの朝鮮人や中国人が、住民の「自警団」や軍、警察によって殺害された。その追悼式に、小池百合子東京都知事は今年も追悼文を送らないと表明した。

 式典は市民団体の主催で1974年以降、墨田区内の都立公園で開かれ、歴代知事がメッセージを寄せてきた。小池氏も就任直後の2016年は前例にならったが、翌年から取りやめた。震災の犠牲者全てを対象とする法要で哀悼の意を示しているから、というのが理由だ。

 だが天災による死と殺害は明らかに性質が異なり、承服し難い。のみならず知事は虐殺について「様々な見方がある」「歴史家がひもとくもの」とあいまいな言い方に終始している。

 事実を軽視し、過去に学ぶ姿勢に欠ける振る舞いで、厳しい非難に値する。

 きっかけは議会での自民都議の質問だった。自警団の行動は震災に乗じて凶悪事件を起こした朝鮮人らへの自衛措置だったとし、公園内の追悼碑の説明文にある「六千余名」という犠牲者数は過大だと批判した。

 だが、「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」といった話がデマだったことは、当時の政府が認めている。詳しい調査がされなかったため正確な犠牲者の数は不明だが、内閣府中央防災会議の報告書(08年)は1千~数千人が殺されたと推計。「大規模災害時に発生した最悪の事態」と位置づけ、教訓とするよう訴えている。

 流言飛語によって民族的な差別意識を増幅させた市民が、何の罪もない人々を殺傷したというのが、事件の本質なのだ。

 この件にとどまらない。

 日本の負の歴史について、研究の蓄積を無視した主張を言い募り、あるいは一部に疑問を投げかけて、諸説があるかのような空気をつくり出し、公的な場から消し去ろうとする「歴史修正主義」の動きが近年相次ぐ。追悼文の取りやめを定着させることは、そうした風潮に加担する行為に他ならない。

 人種や民族、宗教などの違いを理由に排斥するヘイトクライム憎悪犯罪)への対策は、国際的な課題だ。最近の日本でも大きな災害が起きるたびに、外国人が犯罪を重ねているといった悪質なデマが飛び交う事態が繰り返されている。

 東京では来年、あらゆる差別を禁じる憲章の下、五輪・パラリンピックが開かれる。高い確率で直下型地震も見込まれる。その都市のトップが、ヘイトクライムの過去に真摯(しんし)に向き合おうとしない。日本のみならず世界の心ある人々が知れば、幻滅し、その資質を疑うだろう。



■3年連続「朝鮮人虐殺」追悼を拒否した東京都知事…「五輪憲章に背く」

「東京では来年、あらゆる差別を禁じる憲章の下、五輪・パラリンピックが開かれる。その都市のトップが、ヘイトクライムの過去に真摯(しんし)に向き合おうとしない」

小池百合子東京都知事が3年連続で関東大震災朝鮮人虐殺追悼式に追悼メッセージを送らないと表明したことに対し、朝日新聞は29日の社説を通じてこのように批判した。日本市民団体が主催する追悼式は1974年以後、毎年9月1日に東京墨田区横網町公園の追悼碑前で開かれる。

小池氏は就任直後の2016年には前任の知事にならって追悼メッセージを寄せた。しかし、東京都議会で自民党所属議員を中心に「自警団の行動は震災に乗じて凶悪事件を起こした朝鮮人らへの自衛措置だった」「追悼碑の説明文にある『六千余名』という犠牲者数は過大だ」などの歴史わい曲発言が相次ぐと、翌年から追悼メッセージを送らなくなった。

このような小池氏の行動について、朝日は「(日本右翼の)『歴史修正主義』の動きが近年相次ぐ」とし「(小池氏が)追悼文の取りやめを定着させることは、そうした風潮に加担する行為に他ならない」と指摘した。あわせて同紙は「『朝鮮人が暴動を起こす』『井戸に毒を入れた』といった話がデマだったことは、当時の政府が認めている」と強調した。

アナウンサー出身の小池氏はメディアを老練に活用する典型的な「劇場型政治家」だ。2016年7月東京都知事補欠選挙でのエピソードは有名だ。政界大物である石原慎太郎前知事が街頭演説で「大年増の厚化粧に都政を任せられない」と話すと、翌日直ちに「きょうは薄化粧で来た。このような人たちのせいで日本女性が大変だ」と直撃弾を飛ばした。この言葉が広く知られて人気を独占した末に、そうそうたる与野党候補を抜いて無所属で当選を果たした。

小池氏は当時、選挙で「保育園不足を解消する」などポピュリズム公約も多く掲げたが、その中には直前の舛添要一知事が約束した第2韓国学校新設用の都有地貸与計画の白紙化もあった。結局、小池氏は「市民のために使われるべき土地をむやみに貸すことはできない」として自身の主張を貫徹させた。都知事になると小池氏は政治歩幅を大きくした。自身が直接作った政治私塾を通じて政治新人を発掘した後、「都民ファーストの会」という地域政党で2017年7月東京都議会選挙に出て圧勝する波乱を起こした。その勢いに乗って3カ月後、中央舞台である衆議院選挙に「希望の党」という新党で勝負に出たが惨敗した後、党代表からも退いた。

一時は有力な「ポスト安倍」候補に挙げられた小池氏の野心は衰えていない。自民党内では都議会で何度も自民党と対立する小池氏への視線は微妙だが、ナンバー2である二階俊博幹事長だけは違う。産経新聞などによると、今月20日に開かれた小池氏の支援団体の集まりにも二階幹事長は姿を見せて努めて蜜月をアピールした。事実上、来年の東京五輪と重なる都知事選で小池氏を押すという意味だ。

日本政界では小池氏が五輪成功と都知事再選を踏み台にもう一度中央政治に戻ってくるのではないかと見る向きがある。2021年9月、安倍晋三首相の任期満了を見据えて政界改編の中心に立とうとするだろうという予測だ。日本右翼の歴史修正主義を都政に積極的に反映しているのも、支持基盤固めのためだという分析が出ている理由だ。



■西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』ちくま文庫、2018年

頁115──

文化人らの証言 その後の回想


頁137──

 大震災がつけた芸名                      千田是也

 ・・・
 そのうち、例の提灯にも取りまかれ、「畜生、白状しろ!」とこづきまわされる。私はしきりに、日本人であることを訴え、早稲田の学生証を見せたが信じてくれない。興奮した彼らは、薪割りや木剣を振りかざし「あいうえおを言え!」「教育勅語を言え!」と矢継ぎ早に要求してくる。この二つはどうにか切りぬけたが「歴代天皇の名前を言え!」と言われたときはさすがに困った。こちらは中学を出たばかりだから半分くらいしか覚えていない。
 もうダメだと覚悟したとき、「なあんだ、伊藤(本名)さんのお坊ちゃまじゃないですか」という声がした。それは日曜学校でいっしょだったころの知り合いだった。この一声で私は救われた。
 それにしても、私は殺られずに済んだが、ちょっと怪しいというだけで、日本人も含めた罪のない人々がいったい何人殺されたのだろう。
 後になってそれは、政府や軍部が流したデマだと知って、がく然とした。震災の混乱を利用して、階級的対立を民族的対立にすり替えることで、大衆の不満をそらそうとしたのだ。これはナチスがとった手段と全く同じではないか。異常時の群集心理で、あるいは私も加害者になっていたかもしれない。その自戒をこめて、センダ・コレヤつまり、千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである。(談)<以下略>・・・


頁241──

市井の人々の証言

頁339──

真っ赤な川                                                        田畑潔

 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった。木賃宿には朝鮮人労務者が多く住みつき、数百人からいたように思う。[略]二日朝から、朝鮮人が火を放けて回っているという流言がとぶと、ただちに朝鮮人狩りが始まった。根岸橋のたもとに、通称"根岸の別荘"と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち7~800人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく探し回り。夜を徹して山狩りをつづけたのである。
 見つけてきた朝鮮人は、警察が年齢、氏名、住所を確かめて保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕まってしまう。ウカウカしていると警察官自身殺されかねないほど殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹やりやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのではなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこずくもの、眼に竹やりを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの・・・・・・朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。
 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぷちに並んで立っている桜並木の、川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも、1本や2本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、戴天記念に植樹された200以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える・・・・・・人間のすることとも思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中が何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な血の濁流となってしまった。
 町の捜索隊による、恐るべき私刑劇は、戒厳令がしかれ、甲府の連隊が治安のために乗り込んできた5日過ぎまでつづいた。多くの朝鮮人狩りに、"功績"のあった囚人たちが、町の人々から"ご囚人さま"と呼ばれ感謝されるという幕間劇までついた。彼らは、行くさきざきで、タバコ、米、食物を盗み、酒をむさぼり飲むという暴行をはたらいたにもかかわらず・・・・・・。(談)
 (『潮』1971年9月号、潮出版社)

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