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同性婚の法制化 一歩を踏み出すときだ

同性婚の法制化 一歩を踏み出すときだ

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20200329/KT200328ETI090005000.php


 伊那市出身の20代後半の男性は同性のパートナーと東京で同居して1年半になる。祖母が最近亡くなり、身近な人の死に、自分の身にもしものことがあったらと不安に駆られたと話す。パートナーは法的に家族としては扱われない。周りの人たちが彼の存在を尊重してくれるのかも心配だ。

 2人の関係を知らない親族もいる場に、連れだって出向くのはためらいがあり、祖母の葬儀にパートナーは参列しなかった。一段落してから2人で墓参りをしたとき、互いの存在を誰にも分かってもらえるよう、公正証書を残しておこうかと話したという。

 東京都渋谷区で「パートナーシップ条例」が施行されて5年が過ぎる。同性カップルの関係を自治体が公的に認め、支援する制度はこの間、札幌市、宝塚市、福岡市など全国の34自治体に広がった。長野県内でも、松本市長に新たに就任する臥雲(がうん)義尚氏が前向きな考えを示している。

   <当事者たち自ら>

 ただ、自治体による認証は、同性同士の関係を法的に認めて保護したり、権利を保障したりするわけではない。同性婚について政府は、極めて慎重な検討が必要だとする姿勢を変えていない。

 与党の自民党内には「伝統的な家族観」と相いれないとして反対する声が強い。立憲民主、共産、社民の野党3党が昨年、同性婚を認める民法改正案を国会に提出したものの、議論は棚上げされ、当事者は法制度の枠から閉め出されたままだ。

 現状を動かそうと当事者たちは自ら声を上げている。2015年には同性愛者ら450人余が日弁連に人権救済を申し立てた。日弁連は昨年7月、同性婚を認めないのは重大な人権侵害だとして関連法の改正を求める意見書を政府、国会に提出している。

 昨年2月には同性カップル13組が東京、大阪など4地裁に一斉に提訴した。憲法が保障する結婚の自由を侵害し、法の下の平等にも反すると訴えて違憲性を正面から問い、国に賠償を求めている。

 同性間の関係をめぐっては、ここへきて裁判所の踏み込んだ判断も目に留まる。宇都宮地裁真岡支部は昨年9月の判決で、価値観や生活実態の多様化を踏まえれば、婚姻を男女間に限る必然性があるとは断じがたいと述べた。

 女性同士の関係が事実婚にあたるかが争われた裁判だ。婚姻は「両性の合意」のみに基づいて成立すると定めた憲法について判決は、制定当時は同性婚が想定されていなかったにすぎず、否定する趣旨ではないと指摘した。

 東京高裁が今月出した控訴審判決は、婚姻に準じた保護の必要性をより明確に示し、同性同士というだけで法律上保護される利益を否定することはできないと述べている。同性婚を認める立法を促したとも読み取れる判決である。

   <憲法を息づかせる>

 同性のカップルを、親元で暮らせない子の「養育里親」に認定する自治体も出てきた。16年の大阪市に続き、名古屋市でも今月、男性カップルが認定されている。

 企業の対応も変わった。生命保険の受取人に同性パートナーを指定できるようになってきたほか、住宅ローンを共同で組めるようにした銀行もある。結婚と同じように祝い金や手当を社員に支給する企業も増えた。

 とはいえ、結婚が法律上認められないことによる社会的な不利益は依然大きい。所得税の配偶者控除は受けられず、法定相続人にもなれない。医療機関でも、家族の同意を得る際、同性パートナーは対象にならないところが多い。

 壁は制度だけではない。同性愛者ら性的少数者への偏見は社会になお根強く残る。一斉提訴に加わった同性カップルの中に名前や顔を出せない人がいることも、その現実を映し出している。

 結婚をするかしないか、誰といつ結婚するかは、人がどう生きるかに深く関わる。自らそれを決める自由は誰にも等しく保障されるべきだ。同性同士だという理由で排除するのは、その自由を奪い、当事者の尊厳を損なう。

 世界では既に28カ国・地域が同性婚を認めている。米国では連邦最高裁が15年、同性婚を禁じる州法を違憲と判断した。アジアでも台湾が昨年、法制化した。

 恋愛感情や性的な関心が向く相手が異性か同性か。性的指向は自分が自分であることと切り離せない。個人の尊重を核に置く憲法の趣旨に照らせば、同性間の関係を分け隔てて扱う理由は見いだせない。多様な個のあり方を認め合うことこそが憲法を息づかせる。

 男女の結婚と同じように、同性同士の結びつきも尊重されなければならない。法制度の見直しに一歩を踏み出すべきときだ。当事者を支え、議論を社会に広げて、国会、政府を動かしたい。

(3月29日)
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インターネットによる差別への取り組み報告 茨城県連

インターネットによる差別への取り組み報告 茨城県連

(2017年10月12日)

http://www.zenkokuren.org/cat25/ 

県連では、インターネットで「酒と荊の日々」というサイトを立ち上げて、全国連や守谷支部長を名指しでヒボウ中傷してきたAに対して、差別サイトをやめさせるとりくみをしてきたが、Aは「削除する。守谷支部長に謝罪したい」という回答を寄せてきた。


 Aはこのインターネットのサイトに「私は中学生の時に守谷市に引っ越してきたが、父も部落民に恐喝された。全国連の守谷支部長の指示で古河の県連事務所に連れて行かれ、身に覚えのないことで糾弾された。卒業後、地元の郵便局に勤めたが、そこでも支部長の娘や部落民に嫌がらせを受けて精神的な病気になった」「部落民はヤクザと同じだ。部落民は骨まで腐っている。つきあわない方がよい」などと、何年にもわたって書き連ねてきた。

 しかしこのような事実は全くない。これはAの被害妄想であり、名指しされた守谷支部長をはじめ全国連の会員はだれもAを知らないし会ったこともない。

裁判闘争を決定

 その後Aの妄想はさらにひどくなり「部落民に復習する」というような書き込みを何度も行うようになった。

 私たちは「部落民」という言い方で差別と憎しみをまき散らすAを糾弾し、この差別サイトをやめさせたかったが、インターネットは匿名であり、どこの誰かはずっと分からなかった。

 昨年の暮れ、調査によってAの身元が判明した。Aは千葉県に住んでいた。

 Aに対してどのような行動を取るか、何度か執行委員会で論議した結果、「Aは自分で言っているように精神的な病気があって通院治療をしている。それをふまえて、直接的糾弾ではなく、弁護士を通じて裁判闘争でインターネットからの削除を要請していく」ということにした。

相手が和解を提案

 県内の尾池弁護士に相談すると、「裁判所には、相手に対して損害賠償=慰謝料を要求するかたちになる。その中で差別サイトをやめるように言っていこう」ということになった。賠償要求は300万円として、今年6月に裁判所に申し立てを行った。

 私たちは裁判が始まったら大衆的な傍聴などの裁判闘争をとりくんでいくことにした。

 これに対して、8月Aは次のような内容の和解を申し入れてきた。

①インターネットのサイトについては、すぐに削除します。②全国連の守谷支部長に謝罪します。③慰謝料は50万円で分割払いにしてほしい。

 本当にAは差別サイトを削除するのか確認すると、すでに削除されていた。100パーセント私たちの勝利だ。

 県連では「①最大の目的だった差別サイトがインターネットから削除された、

②謝罪については、直接会って謝罪することはいらない。ただ二度とこのような差別サイトをやらないことを誓わせる、③慰謝料については、お金が目的ではないので相手の要望通りでよい」という内容で和解を受け入れることを執行委員会で確認した。

匿名で野放し状態

 今回は、たまたま相手を特定できたために、法的な手段で行ったとはいえ削除と謝罪をかちとることができた。

 また相手が愉快犯や確信犯ではなく、被害妄想をかかえているという事情のために、こちらも慎重な対応をとることになった。

 しかしインターネットで差別をばらまいている連中は(示現舎の宮部らを例外として)その匿名性に隠れてほとんど相手が分からず野放し状態になっているのが現状だ。

差別は許さない

 今回の取り組みも、当初どのように取り組んでいくかというという話し合いでは「そんなやつは放っておけ」「相手にしない方がいい」という意見もあった。

 年配者でインターネットなど見ない役員にとっては、別世界の話のように受け止められていた面もある。糾弾闘争は、あらかじめの前提ではなかった。

 しかし話し合いを重ねる中で、このサイトを見た人は本当だと思うし、部落民はこわいという差別意識をばらまくことはまちがいない。そんな差別事件を放置せずに、どんなかたちでも取り組むことを決め、実行した。

 その結果、私たちの予想以上に早く差別サイトを削除することができた。

 これから茨城で差別事件があった時に、今回の取り組みは大きな教訓になるだろう。

 直接の大衆的な糾弾闘争や裁判闘争などかたちは様々だが、差別は許さないという取り組みだけが問題を解決していく道だ。

 

豪でイスラム教徒の妊婦に暴行 男逮捕、人種差別か

豪でイスラム教徒の妊婦に暴行 男逮捕、人種差別か


 【ブカ(パプアニューギニア)共同】オーストラリア・シドニー近郊のカフェで、髪を隠すスカーフを巻いたイスラム教徒の妊娠中の女性(31)が殴られたり踏みつけられたりする事件があり、警察は25日までに暴行容疑で43歳の男を逮捕した。人種差別的な動機に基づいた犯行の可能性があるとみて調べている。

 警察や地元メディアによると、妊娠38週のラナ・エラスマールさんが20日夜、友人とカフェにいたところ、近づいてきた見知らぬ男が何度も顔を殴り、頭を踏みつけた。エラスマールさんは軽傷。

(11月25日10時31分)

ハンセン病法廷 司法の差別に向き合え


■藤本事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

藤本事件(ふじもとじけん)とは1951年昭和26年)に熊本県菊池郡で発生した爆破事件および殺人事件である。地名を取って菊池事件と呼称する場合もある。

被告人ハンセン病患者であり、差別に基づく冤罪であったとの主張がある[1]


■『信濃毎日新聞』社説

ハンセン病法廷 司法の差別に向き合え

 

 ハンセン病元患者家族への補償法が成立した。家族にも深刻な差別が及んだ責任を国が認め、被害の回復を図ることは大きな一歩だが、これですべてが解決するわけではない。

 見落とせないことの一つが隔離施設内に設けた「特別法廷」の問題だ。裁判としての公正さを欠く上、不当な刑罰を科された疑いがある。1950年代に熊本で起きた菊池事件はそれを象徴する。

 検察が再審を請求しないのは違法だとして、元患者らが国に賠償を求めた訴訟が熊本地裁で結審した。「冤罪(えんざい)が晴らされない限り、私たちも人としての尊厳を回復できない」。原告の一人、志村康(やすし)さんは最終弁論で訴えた。

 ハンセン病患者とされた男性が殺人罪に問われた事件である。一貫して無実を主張したが、死刑が確定し、62年に執行された。

 特別法廷では、裁判官、検察官、弁護人がいずれも白衣と手袋を着け、証拠物を火箸や割り箸で扱ったという。国選弁護人は検察が提出した証拠にすべて同意し、弁護らしい弁護をしなかった。

 冤罪の可能性はかねて指摘されてきた。凶器とされた短刀や男性の着衣に血痕はなく、関係者の証言にも不自然さが目立つ。

 差別を恐れて遺族が再審を請求できないことを踏まえ、元患者らは2012年に、検察による再審請求を要請した。公益の代表として検察にはその権限がある。

 けれども最高検は、理由がないとして応じなかった。今回の裁判でも国側は、検察官による再審請求の目的は社会の秩序維持という公益であり、個別の国民の利益保護ではないと述べている。

 耳を疑う主張だ。不公正な裁判によって刑罰を科されることがあってはならないし、冤罪は重大な人権侵害である。ましてこの事件では、死刑によって命が奪われている。個人の尊厳や生命をないがしろにして成り立つ「社会の秩序」や「公益」とは何なのか。

 特別法廷は、憲法が定める「公開の法廷」とは言いがたい。患者であることを理由にした差別は、法の下の平等にも反する。

 特別法廷は70年代までに95件開かれた。菊池事件をめぐる今回の裁判は、元患者や家族ら差別被害を受けた人たちすべての尊厳の回復に関わっている。

 明治期から90年に及んだ患者の強制隔離政策によって、社会に染み込んだ差別意識の根は深い。その克服に向け、司法、検察が自らも差別に加担してきた責任にどう向き合うかが問われている。

(11月22日)

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦

                  
    

1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は南北に分かれて島を制圧していきます。愛楽園には4月21日に米軍が進攻し、園は占領され終戦を迎えました。それまでに計8回の空襲がありましたが、入所者は自ら掘った防空壕に避難できたため被弾死は一人に留まりました。

 

しかし不衛生な壕生活や栄養失調状態が長く続いたため、次々と入所者が死亡します。本病を悪化させ死んでいく者、アメーバ赤痢やマラリアにかかり衰弱死する者、食糧不足からくる餓死や中毒死。入所者自治会の調査によると、愛楽園では1944年10月から終戦翌年の1946年末までに315人が死亡しています。

 

その多くは前年の軍収容で入所した人々で、壕の壁にもたれて座ったまま死んでいても、名前さえ知らない病友だったといいます。

 

 

写真2

愛楽園内に残る防空壕。園長の名をとって「早田壕」と呼ばれている(2015年1月沖縄愛楽園自治会撮影)

 

 

入所者の証言に次のようなものがあります。

 

「(園長が言うには)ぼくは救ライに大きな功績を残した、なぜかというと、救ライということはライを撲滅させることだから、患者を一人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。(中略)ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよね。それを聞いた時には、われわれには人権はないのか、ということですよね」

「ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ(園長に)進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落とさせておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかと」

(『沖縄県史』10巻、1974年)

 

沖縄戦において、避難民を壕から追い出したり住民の食糧を奪ったり、捕虜になるのを許さず住民を殺害する者がいたりと、日本軍の残虐な行為について言及されることがあります。それは追い詰められ、極限状態に陥った中での行為だったかもしれません。

 

しかし、ハンセン病患者について考えたとき、軍や政府・園当局は極限状態に陥るずっと前から、患者を守るつもりはなかったし、患者が飢えて死ぬことも構わなかった。自分たちが手をかけずに死んでくれればむしろ幸い、くらいの感覚でいたとしか思えないのです。

 

入所者たちは、自ら体を傷めて掘った壕の土の上で、湿りきった、カビの生えたムシロの冷たさを背中に負いながら、虫けらのようにひっそりと死んでいきました。

 

 

砲弾の下で――「死ねばいい」と言わせる極限

 

「戦争はひどくなり、もうあっちにもこっちにも逃げ場がなくて、どこにいけばいいのかって半年以上山に隠れていたよ。そのとき、別の場所にいた親戚のおばさんが「Sの上に爆弾が落ちればいい」と言っていたと人づてに聞いて。この病気だから私を憎んでいたらしい。私はこれだけはいつまでも忘れられない。だから戦争中、どこで死んでもいいという気持ちが私はあったわけ、この病気で。」

(Sさん(女性)証言 2006年12月 筆者聞き取り)

 

日本軍による強制収容を免れた離島の患者たちは、戦火に追われるだけでなく地域住民の剥き出しの差別にも対峙していました。地上戦の恐怖にさらされる極限状態の中で、人々のハンセン病者に向けられた憎悪感情は鋭さを増し、砲爆撃以上の威力で患者を傷つけたのです。Sさんは戦後、自分の病気が原因で息子にも差別が及ぶことを懸念し、病気ではない息子も連れて自ら愛楽園に入所しています。

 

当時18歳だった山城清子さんは、一緒に山中に避難しようと言う祖母に「私は行かない。死んでもいい」と答えました。「自分が病気しているから人にも嫌われるし、一緒に行こうって言われても行けないさ」と、一人、壕に身を隠したのです。

 

ときには、迫り来る米軍機に向かって「殺してくれ」と道の真ん中で大の字に寝転がってみたりしましたが、「やっぱり怖くて。近くに落ちていた枝切れを持って『偽装』したんだよ」と笑います。

 

一方で、沖縄戦被害の甚大さは、却って自分の存在を消すのに好都合だったと振り返る方もいます。自身の病気のために家族みんながいじめられ、学校も仕事も行けず、本土や南洋に逃げた。

 

「私たちにすればね、戦争があったほうがよかった。(皆、自分のことに精一杯で)なんにも音沙汰がなくなるさね、私のことも。それで終戦後はいじめられないようになって。戦争して負けたんだけど、自分たちの幸せは戦争があった方がいいって」

(『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』2007年、吉田順子さん(女性)証言)

 

沖縄戦の惨劇を二度と繰り返してはならない、と体験の継承に取り組む者にとってあまりに衝撃的な証言です。しかし、想像を絶する差別社会がそこに確かにありました。「戦争があったほうがいい」と言わせるほどの差別社会を営んでいたのは、まぎれもなく一人一人の市民だった(それは沖縄戦の被害者でもある)ことに、無自覚ではいられません。

 

幾重にも複雑に交差する被害の諸相と、また別の角度から見えてくる加害の実態を、単純化せずに伝える努力が私たちには求められます。

 

 

おわりに

 

最近、「THINK NOW ハンセン病」というプロジェクトに寄せられたマツコ・デラックスさんの言葉にはっとさせられました。

 

「もし、本当の意味でハンセン病への差別や偏見がなくなったら、この先本当に、差別や偏見をゼロにするきっかけになるんじゃないかと思っています。(中略)いまネットを開けば、本当は胸に秘めていなければいけない人に対する憎悪を、簡単に書きこめて世の中に見せることができてしまうことができる状況がある。これからそれが助長していくと、ますます差別や偏見が生まれやすい状況ができてしまう気がしていて。そんな中で今一度、ハンセン病について振り返る・知るという行為が、何か、光明になるんじゃないかっていう思いがしています。」

(マツコ・デラックス「THINK NOW ハンセン病Part2」

 

「ハンセン病問題を学ぶ」のではなく、ハンセン病問題に普遍性を見出し、日々の暮らしにどう活かしていけるのか。自分と社会と歴史とが常につながっていることを意識しながら、私たちが五感を研ぎ澄ませて想像しなければならない過去とはなにか。単純ではない今の社会のありようを思いながら、だからこそ、彼女の言葉に多くの可能性を感じます。

 

翻って、ハンセン病患者が辿らされた沖縄戦の実相を、私たちはどう受け止めることができるでしょうか。

 

今回紹介した多くの入所者証言は、「なぜ今さら、思い出したくもないことを語らせるのか。語っても差別はなくならんよ」と証言を拒む方たちに、「みなさんの語りがきっと社会を動かす。どうか記録させてください」と説得し、血を流すような思いで語っていただいたものばかりです。あとは、それを受け取る私たちの感性と責任にかかっています。

 

今年6月、沖縄県名護市にある国立療養所沖縄愛楽園に「交流会館」が開館しました。沖縄のハンセン病問題をめぐる資料・証言にぜひ一度ふれていただき、何か心がざわざわしたらきっとそこがスタートだと思います。

 

交流会館のすぐそばには、美しい屋我地島の海も広がっています。同じ景色を何百人何千人の入所者が見つめ、生きて、死んでいったか、思い描いてみて下さい。この土地に刻まれた歴史を、多くの方々と共有していきたいと、強く願っています。

 

※ 沖縄愛楽園自治会ホームページ

 

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檜原転石

Author:檜原転石
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