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安芸高田市・児玉浩市長の記者会見に思う「丸刈りが謝罪に用いられること」への違和感


 「丸刈り」を自らにする奴は、「丸刈り」にできる頭──「丸刈り」で頭を晒してもなんら問題を発生させない。例えば脱毛とか頭の形など──を持っているという奴だ。だからこそ、自発的に「丸刈り」にする。例えば、脱毛とかを髪で隠している人間は絶対に「丸刈り」にはしない。だからこそ子どもへの「丸刈り」強制は絶対にダメなのだが、この程度のことにも気づかない愚劣な教師は過去にはたくさんいたのである(制服によるスカート強制だって一緒だ。足など人前で晒したくない子どもは絶対いるはずだ)。だって岩手県の中学校の3校では何と去年の3月まで愚劣な「丸刈り校則」があったのだ。
 この文脈から、自発的に「丸刈り」にする奴は危ない、ということは分かってもらえるだろう。その種の奴は他者に強制する可能性が常にあるからだ。





■安芸高田市・児玉浩市長の記者会見に思う「丸刈りが謝罪に用いられること」への違和感

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まいどなニュース

https://news.yahoo.co.jp/articles/d79bce37667dfc4c0c90869a66ee7f5329118697 昨年の参院選をめぐり河井克行容疑者、河井案里容疑者によって引き起こされた大規模買収事件。事件は夫妻の地元、広島県を中心にさまざまな波紋を起こしているが、いま世間では安芸高田市・児玉浩市長の「丸刈り謝罪」が特に大きな話題として扱われている。

【写真】「丸刈り強制やめた経緯参考にして」

これまでの主張から一転して計60万円の金銭受領を認めた児玉市長は6月26日、頭を丸刈りにして謝罪と市長続投を表明する記者会見を開催した。髪型を変えることがこの問題の本質となんら関係ない陳腐な行為であることは明らかだが、今回深く考えたいのはなぜ「謝罪=丸刈り」なのかということだ。

丸刈り謝罪と言えば、2013年に「ルール違反」である男女交際をスクープされたAKB48・峯岸みなみさんが自ら丸刈りにして謝罪動画を公開した事件も大きな話題になった。女性ということもあり、ルール違反を反省していることはよく伝わったのだが、同時になんとも言えない気持ち悪さを感じた方も多かったはずだ。

日本人ほど丸刈りに意味を込めたがる国民はいないだろう。近世以前には男性が戦争や政争に敗れ野心を捨てたことを表明するために剃髪する例、女性が亡くなった夫に対し操を守るために剃髪する例が多数あった。戦時中には織田作之助「髪」に見られるように男性の丸刈り以外の長髪は精神のたるみの象徴とされ弾圧された。戦後に至っても中学、高校の男子生徒に丸刈りが「学生らしい」髪型として強制されたり、懲罰行為として用いられることが多々あった。

神戸市では1990年頃までほぼ全て中学校で丸刈りが強制されていたし、2000年代に筆者が通った大阪府の私立中学、高校でも些細な校則違反、宿題忘れへの懲罰として丸刈りが課せられることがあった。令和の時代になってさすがにそんな学校は無いだろうと信じたいが、なおも野球などの部活動では「自発的」と言いながらほとんど強制的に部員に丸刈りが課せられているようだ。2019年の「ハフポスト日本版」調べによるとアンケートに回答した49校中、なんと43校の野球部が「伝統」や「慣習」を理由に部員が自主的に丸刈りにすると回答しているという。驚くべきことだ。

日本において丸刈りは謝罪の手段として、また同時に体制による支配の手段として利用されてきたのだ。峯岸さんの丸刈り謝罪に気持ち悪さを感じるのは、その行為が本来一個人として自由であるはずの女性が、実はいまだに社会的に支配された存在であることを象徴するものだったから。また児玉市長の丸刈り謝罪に底知れぬアホらしさや怒りを感じるのは、その行為がなんら思想や深い考察をともなわず、無神経に反省のポーズとして用いられたからだ。

確かに丸刈りを強いること、心ならず丸刈りになることの視覚的、精神的インパクトは大きい。だからこそ古くから用いられてきたのだろうが、有色人種やLGBTへの差別が世界的な反発を呼び、個人の人権や個性が尊重される社会づくりが今後の課題とされる現代にそのような野蛮な行為に及ぶのは果たしていかがなものだろうか。

東洋的な思想を形作った孔子の教えにも「身体髪膚これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」(「孝経」より)という言葉がある。手足から髪、肌にいたるまで身体は父母からいただいたものなので敢えて傷つけるようなことがあってはならないという意味だ。タトゥー文化等との兼ね合いを考えるといささか旧弊に感じるかもしれないが「身体に本意ではない傷をつけることへの戒め」ととらえれば今なお重みをもって受け止められるべき名言だろう。特に今話題になっている児玉市長には自分の丸刈り謝罪がいかに時代遅れの愚行の上塗りであったかご理解いただくための参考にしていただきたいと思うのだが。

(まいどなニュース特約・中将 タカノリ)

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悪口雑言の満ちた「丸刈り校則」反対の最後のビラ

 

 もう24年も経つのだが、このビラの2ヶ月後に「丸刈り校則」が終わったのか、この年の翌年の4月なのかが定かではない。まあとにかく学校の教師が子どもに加える拷問の一つである「丸刈り校則」は終わった。きっかけは愚劣な教師の思いつきなのだが、どんな愚劣でも30年も続ければ伝統となるわけで、ある意味恐ろしいことだ。この事例では校長は自分では「丸刈り校則」を廃止せず、公認の校長に頼んだというおまけまでついている。校長が、「丸刈り校則」廃止を功績と感じたのか、あるいは重荷と感じたのかは定かではないが、いずれにしても功績は半減され、重荷も半減されたわけだ。まあ何でも2人でやれば気は楽だ(笑)。実は岡崎ではたった1人で長髪を通して通っていた中学生もいたのに、この子どもに比してこの教育者である大人たちの奥ゆかしさ──処世術──には泣けてくる。


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校則なくした中学校たったひとつの校長ルール 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた/西郷孝彦/著

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■さよなら丸刈り校則



               或いは  くたばれ丸刈り拷問         第10号                                                1996年2月14日


・・・


教師へ A
 
 マルセ太郎は、高々30人の長になるために、魂まで売ってしまう教師がなんと多い事かと講演でしゃべるそうですが、もちろん諺に「鶏頭になれ、牛後より」とあるぐらいですから、高々というより30人の長になることは素晴らしい事なのですが、そのためには志をすべてを捨て去るのでは話にもなりません。ただ売る魂をまだ少し持ち合わせている教師がまだいるのなら少しは救われるのですが、現実は無能な教師だけが「鶏頭」を目指しているとしたら・・・、殺され続ける子供は増え続けるでしょう。  

 教師へ  B

 あなた方は男子生徒の頭を「丸刈り」にして何も感じないのですか?人間としての痛みを、悲しみを、苦しみを。もし何も感じないのなら教師をやめて下さい。ただ生活のための職業とあなた方が思っているのなら、子供を苦しめさせない他の職業を選んで下さい。あなた方の教員の資格はただただ国・県が与えただけのものであって、けっして子供があたえたものではないからです。


  「血液型性格判断」という大嘘

 「10人10色」という言葉がありますが、何故こんな良い言葉がありながら「血液型性格判断」という馬鹿げたものが、世界のなかで日本だけではやるのでしょう。多くの人間をたった4つに分類して何か得るものがあるのでしょうか。
アメリカ先住民はほとんどが「O型」ですが、彼らの性格はたった1種類ということになります。つまらない手引書で人を判断するのではなく、人が100人いれば100人の個性があるのだから、しっかり人を見よというのが結論になります。血液型には、ABO型以外にも50種類近くありますが、Rh型では「+」と「-」しかありませんから、人の性格を二つに分類できます。それがいかに馬鹿げたことかを説明する必要はないと思います。それでも世の中には馬鹿げた会社があり、例えば三菱信託銀行はAB型しか採用しないそうです。人事課がバカなのか会社がバカなのか分かりませんが、このてのことをテレビで「お笑い」の対象にすべきなのです。
 骨髄移植では白血球の型が問題になりますが、その移植に際して血液型(ABO)が変わることがあります。当たり前ですよね、血液工場(骨髄)そのものを取り替えるのですから。そうすると骨髄登録に際しては、性格やその他諸々まで登録しなければなりませんよね。このてのことは今度は、お笑い空想科学小説にでもまかせておきましょう。
 性格は脳のなかにあります。赤血球(ABO型はそれにヒゲがあるか無いかというかということ)は脳内には入れないそうですから、「血液型性格判断」は科学ではなく、嘘で固めた「お遊び」なのです。それを信じることによって失うものはかなり大きいと思いますよ。「嘘の手引書」によって判断する方もされる方も。


私の小父さんをよってたかって殺した奴等に言っておきたいこと

 私の小父さんは、かかりつけの医者にどこも悪く無いと言われた、おかしいとおもってかかった次の医者にも悪くないと言われた。しかし心臓弁膜症の手術から7年の小父に回りの奴等がよってたかって言ったこと。新築の家の玄関の位置が悪い、便所の位置が悪い、方角が悪いナドナドナド・・・・・・。。お祓いをしてもらえ、拝んでもらえ、占い師に見てもらえ、どこかがたたられている、誰かがたたられている、死んだ妹が呼んでいる、水子の霊が呼んでいるナドナドナド。
 良い医者を選びなさい、タバコはやめなさい、酒は控えなさい、過労は特にいけません、などとは誰も決して言わなかった。
 3番目の医者をさがす前に小父さんのやったこと。祈祷、お祓い、先祖供養、占い師への訪問ナドナドナド・・・・・・。
 重体の小父は、やっとたどり着いた3番目の病院であっけなく死んだ。享年53才。
  私は怒っている、人間の弱みにつけ込む宗教がかった人間を含むすべてに対して。お祓いをしている暇があったら、「直ちに医者へ行け」、「医学書を読め」、「最初の医者がダメなら医者を変えろ」、要するに「生死の間にいる人間」を救うのに時間はない。ことは一刻を要する。だから「黙っていろ」、お祓い好きやたたり好きな人間は、「何もしゃべるな」。「弱くて苦しんでいる人間に近づくな」。

   日本の宗教は・・・

  日本の宗教は、お祓いをすれば何をしても許されると言う打算的な宗教でもある。だからお祓いをしてから森を破壊する、川を破壊する、自然を破壊し地球を痛めつけても何の痛みも感じない。そこに自然への畏敬など微塵も感じない。
 アイヌ人の自然への関わりはそれと全く違う。自然から生かさせてもらっているだという謙虚さがある。だからサケをとりすぎない、森からは収奪をしないだろう。儀式は森、川、総じて自然と人間の共生の貴重な営みである。そこに打算も利己主義も見えない。

 たたりについて

 どんな悪人にも、例えば「アジア人2000万人以上の殺人の命令者で、敗戦間近には天皇制を残すのみに狂奔し、そのために莫大な数のアジア人が殺され、数100万単位の日本人が戦場、原爆や空襲で無駄に死んだにもかかわらず、責任も取らず、平和主義者として恥知らずにも居座り、数10年たてば、自衛隊の戦力はたいしたことがないのだからもっと増やせとうそぶき、80才以上生きた人間」にたたりがあったと、噂でさえ聞いたことがない。
 安心してくれ、どんなよこしまな人間にもたたりがない以上、善良な人間にたたりがあるわけがないのだ。
 阪神大震災で分かった、金持ちの住宅が貧乏人の安普請より丈夫なことを。自然災害さえも差別的に貧乏人を狙い撃ちするのだから、これを公正な社会に少しでも近づける努力をするのがまっとうな人間の目指す道なのです。たたられているのは、人間の無知と公正を実現しない怠慢なのです。


「女子の制服にズボンも」 生徒会の陳情で制服選択制、年明け導入へ 校長「陳情のシステム学ぶ良い機会に」

「女子の制服にズボンも」 生徒会の陳情で制服選択制、年明け導入へ 校長「陳情のシステム学ぶ良い機会に」


                   

陳情を提出した生徒会長の照屋規翔さん(前列左から2人目)と、回答したPTAの又吉琢巳会長(同3人目)、神里一吉校長(右端)=10日、糸満市立西崎中学校

 要望があったのは「女子生徒の制服のスカートとズボンの自由選択制」「ズボンを着用した際のリボン未着用」の二つ。

 きっかけは、神里校長が生徒会メンバーと学校運営について話し合う懇談会で、高校で取り組みが広がる「選択制服制」について話題になったことだった。

 提案を受け、同校は5月29日に学級調査を実施。6月14日の生徒会総会で校則の変更を求める決議がなされ、9月27日に照屋さんが陳情書を提出した。

 日頃から生徒の主体的な学校運営を促し、意見を書面で提出することを呼び掛けてきた神里校長は「社会のさまざまな場で用いられる陳情のシステムについても学んでもらう良い機会になると思った」と話す。

 制服の選択制について「高校で広まる選択制を中学から取り入れることで取り組みが接続される」とした上で、「LGBTなど性的少数者の生徒などの生きづらさを解消し、学校生活を楽しんでもらいたい」との思いがあったと話す。

 照屋さんは校則が変わることでLGBTの生徒にも学校を楽しんでほしいと願っており、「文書を作るのは難しかったが将来に向け、貴重でいい経験になった」と笑顔。「西崎中をきっかけに、他の学校でも活動が広まっていってほしい」と目を輝かせた。

 又吉会長は「子どもたちと真剣に向き合えるPTA活動のためにも(陳情での要望を)今後も続けてほしい」と話した。

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